2007年2月18日日曜日

斉藤正午


弘前の生んだもうひとりの名パイロットを紹介する。斉藤正午(さいとう まさおき 1918-1944)は弘前城西堀沿いの家で生まれ、朝陽小学校を卒業し、1935年に少年飛行兵第二期として所沢飛行学校に入校した。1939年に起こったノモンハン事件では飛行第24戦隊の一員として9月の終戦までに25機を撃墜して、戦隊のトップエースになっていた。体当たり撃墜王の異名をもち、6月22日に起こった100機余りのソ連戦闘機による大規模空戦では、第24戦隊の97戦闘機18機だけで戦い、弾薬も撃ち尽くしながら、8機のI-16戦闘機に包囲され、右翼で敵の垂直尾翼上部を切断させ、撃墜させている。高度な飛行技術である。
斉藤は子供のころから正義感が強く、近所の子供たちのリーダーになっていたと、当時斉藤にかわいがられた知人の歯科医が言っていた。またノモンハン事件後に故郷弘前中学校でも講演があり、生徒として聞いていた彼は先輩のことが非常に誇らしく、うれしかったとも語ってくれた。
士官学校卒業後は、少尉として飛行第78戦隊の一員としてニューギニアに派遣され、20mmマウザー砲を搭載した新式の三式戦一型丙に搭乗し、B-24重爆撃機を含む数機を撃墜、最終撃墜数は26機で日本陸軍航空隊のエース18位である。1944年7月2日のホランジアでの米軍の対する地上戦で戦死した。第78戦隊は最も悲劇的な戦隊として知られている。米軍のニューギニア進出に、日本海軍はマリアナの防衛を優先するためニューギニア陸軍を完全に見捨てた。第78戦隊も稼働飛行機0の状態で、飛行士もずべて歩兵部隊として戦闘に参加した。ウエワク付近の戦闘で飛行第78戦隊は戦隊長以下将校全員戦死、戦隊員の92%が戦死した。
優秀な飛行士には天賦の才能と長い訓練期間が必要で、膨大な費用がかかっている。まして斉藤のようなベテランのエースを歩兵として死なせたことは、日本軍の愚かさを端的に表している。
日本陸軍航空隊のエース1937-1945(ヘンリー・サカイダ著 Osprey Aircraft of The Aces)および世界の傑作機陸軍97式戦闘機、陸軍3式戦闘機「飛燕」(文林堂)を参考にした。

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