2007年2月22日木曜日

笹森儀助 1


着物にこうもり傘、うちわにワラジ、この有名な写真は沖縄諸島探検に行く前の格好である。笹森儀助(1845-1915)は弘前市在府町54で生まれた。以前紹介した人物に比べて一回り古い世代である。この人ほど熱情という言葉がふさわしい人物はいない。父、重吉は家禄100石の御目付役であったが、早く亡くなったため、儀助は13歳で家督を継ぎ、小姓組として出仕した。15歳から22歳まで藩校で学んだが、とくに師山田登からの影響が強く、「みずから反して正しからば、千万人といえども我ゆかん」という師の精神に感化された。この反骨な考えは友人の陸羯南にも引き継がれていく。22歳のころには早くも国政改革の意見書を提出して、藩主の怒りを買い、家督を1/3に減らされた上、4年間も蟄居されていた。後日の儀助の生き方を暗示させる。維新後は有能な若手官僚となったが、やはり血がさわぐのか、山で暮らす人々のため山林の国有化に反対し、明治14年には官僚生活をあっさり捨てる。
武士の生活の貧窮をみると、今度は牛乳販売を思いつき、給料ももらわず、さんざん苦労して、農牧社を興したが、ここでも軌道に乗り出した明治25年には辞職した。このように儀助は常に貧しい農民や維新により立場が失墜した旧武士たちの救済に全力を尽くした。一方、これは欠点になるかもしれないが、あまり我慢がきかない性格で、一カ所に長く残ることは生涯できなかった。政府などの大きな勢力があると強い怒りをもって歯向かうが、陸のように何度も立ち向かうことはせず、やめてしまう。非常にピュアーな性格がわざわいしているのだろう。

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