2007年10月15日月曜日

山田兄弟8



「津軽奇人伝 続」原子昭三著に山田兄弟についても次のような記述がある。
「良政が孫文と初めて会談したのは明治32年7月のことだった。当時、東京神田三崎町には、津軽出身の書生がゴロゴロしていた宿舎があった。ある日良政は「おい、今日は支那の偉い人が来るから、少し静かにしろ。相撲だけはとるな」と言いつけた。弟の純三郎は障子の破れ目から支那の偉い人を、垣間見たら、額はオデコ、後頭部もオデコのような小肥りの変哲もなさそうな小男がちょこんと座っていた。」     純三郎にとっても初めて孫文と会った瞬間であった。

上海日報紙に
「良政氏は裡に熱血もえ、外に冷静に、極めて真摯な人物であった。氏は最初上海にきた当時在留青年を集めてキリスト教青年会を組織したことがある。エバンス書店の主人などは、その頃の良政をよく知っているとのことである。また良政がいよいよ広東で事をあげることになるや、青年数名は香港の良政氏に手紙を出して従軍せんことを願った。しかし良政氏は大いに驚き、早速返事をよせて断然これを許さなかった」
「良政がいかに生徒に慕われておったかというのは、同文書院の生徒に櫛引武四郎という同郷弘前出身者がおった。彼は良政が止めるのもきかず、逆に恵州に参加し、九死に一生の生還をすることができた。しかし大正2年第二革命に於いて南京郊外で戦死、39才の生涯を終えている」     第二革命は1913年であることから、櫛引は1874年生まれで、良政の6歳年下、純三郎からは3歳年上にあたる。恵州蜂起が1900年であることから、26歳のころに参加した。良政が教鞭をとっていた南京同文書院(後1901年より東亜同文書院)ができたの1900年春で、おそらく櫛引は同文書院の1回生15名のひとりで、純三郎とは同期であったと思われる。ふたりはその後、どのような活動をしたのだろうか。

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