2008年2月10日日曜日

珍田捨巳 8



日本の男子のうち、日露戦争の軍神広瀬武夫少佐ほど、老若男女、もてたひとはいない。彼自身は、硬派で遊郭に行くこともなく、女性との接触はほとんどなかったようだが、旅順港の行為を抜きにしても、その人柄、生き様は好感がもたれたようだ。

珍田捨巳と広瀬少佐の接触は、ロシア領事館でのことである。珍田は、明治33年11月に小村寿太郎の後任としてロシア特命全権公使としてロシアに赴任する。この時に、海軍の派遣留学生をへて駐在していた広瀬武夫少佐が領事館にいた。また陸軍派遣留学生として田中義一(後の首相)や加藤寛治大佐(後の海軍大将)なども一緒にいた。

広瀬少佐の珍田の人物評として「彼は、この年45歳、津軽の人である。小村のように機鋒鋭くはない。しかし明敏な頭脳で、なかなか洒脱である。円満居士というあだ名があるようで、東北なまりで結構実務をしかるべくさばく人である」としている。なかなか的を得た評価であり、後の外務大臣の松岡洋右も珍田について同じような人物評をしている。

広瀬武夫は東京の攻玉社を卒業後に、士官学校に行った。この攻玉社の創立者のひとりで、森鴎外の渋江抽斎にも登場する藤田潜という津軽人がいて、広瀬の在学時には校長をしていた。またこの藤田の次男が後に海軍大将、終戦時の侍従長の藤田尚徳である。藤田尚徳の嫁寿子は広瀬武夫の弟婦人と従姉妹同士であったようだ。そのように広瀬にとっての津軽人は藤田校長であり、珍田であった。珍田と藤田潜は津軽藩の藩校稽古館で英語を学んだ同窓生で友人であった。

広瀬は柔道の達人で、ロシアにいた時も暴漢を得意の柔道で投げ倒すようなこともあった。正義感の強い好男子として珍田の目に写ったのであろう。後に珍田婦人いはは広瀬のことを「わたしたちは、広瀬さんの自由闊達な姿をとても好ましく感じました。主人とよく息子のひとりは、是非広瀬くんのような海軍士官にしたいものですと語りあったものです」としている。よほど印象がよかったのであろう。

ちなみに東京の攻玉社は、海軍士官学校の予備校的な学校で、戦前の海軍将軍の半分をこの学校の卒業生が占めていたと言われており、wikipediaを見ても、すごい人物が卒業生にいる。中には、共産主義者の片山潜もいておもしろい。現在では、それほど有名ではないが、攻玉社中学、高校として残っている。日本でも古くて、伝統のある学校である。同様に日本学園中学、高校はもっとすごく、吉田茂はじめ、政官財の錚々たる顔ぶれである。戦前の伝統校が凋落した例だが、戦後それまでの教育方針を否定したところから凋落がはじまったのかもしれない。

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