2008年6月9日月曜日

前田光世2


前田光世の先祖前田三右衛門は、津軽藩の藩祖津軽為信の津軽統一にも参加した誉れ高い家門であり、その在地は俗称志戸の沢館にあり、その本家筋にあたる。光世は正式には青森県中津軽郡船沢村富栄字笹崎133番地1号の生まれ、光世の生まれたころは戸籍は平民で、河原の葦がや苅りあるいは岩木川下流の葦苅りの権利を持っていたと言われる。生誕地に行くと周囲は見渡す限りの農地でこれでは中学校に行くのにも金銭的にきついと推測されるが、鼻和小学校から明治26年青森県尋常中学校(旧制弘前中学校)に行ったことから見ると、父前田了は相当才覚があり、ただの農民ではなかったと思われる。うちの父に聞いた話では、中学校にいくのはクラスでもほんの数人で、頭がずばぬけてよいか、家が豊かなものに限られていたという。光世の生まれた船沢村から中学校に行くには相当遠いが、現在でもうちの娘の友人は自転車で1時間もかけて船沢から弘前中学校からさらに数キロ先の高校に通っている。当時、明治26年ころでは、船沢村から弘前中学校までは十分に歩ける距離であるが、それでも光世は友人の工藤十三雄の所に下宿して学校に通っている。

また記録によれば光世は明治29年に弘前中学を2年で中退し、早稲田中学校に入学するが、実は3年かかって2年生に進級したことになる。さらに進級が難しいので早稲田中学に転校したとみるべきか。成績表では英語は赤点になっている。どちらかというと勉強家というよりは、バンカラの雰囲気を残した青年であったのであろう。田舎で勉強して官吏や教員になるくらいなら、東京に出て出世しようという野心があって上京したのであろう。

子供の頃から身長はそれほど高くなかったが、たくましい体をしていて「相撲取りのなっても十分やっていける」と言われたほど腕力は強かった。早稲田専門学校の柔道場の通うと、その才能を開花させ、入門1年半、明治31年12月の無段者の月次勝負、これは無段者と有段者の分かれ、あらかじめ席順を決めて、順次勝ったものが上位に進む勝ち抜き戦である。ここで白帯をしめた乙組5、6人を簡単に投げ飛ばし、次に紫帯の上位者も次々投げ飛ばし、連続14.15人勝ち抜いた。これにより初段の認定を受けている。さらに32年10月には2段に昇段したが、一年間に二段昇段は当時でも非常に珍しい。よほど柔道が合っていたのであろう。

前田が後日、渡米時に持っていった金は12000円?(まさかと思うが、もう一度図書館で調べます)、これは現代の価値では2億円に匹敵し、またあの船沢から弘前中学、早稲田中学への進学といい、前田家の金の出所が非常に気になる。没落士族の子供が苦労してといったイメージがわかない。図書館で数冊の前田光世関係の本を読みながら、ここが非常に気になって、先に進められませんでした。

ちなみに明治30年ころの小学校の教諭の初任給が10-13円であるのに対して、旧制中学校の授業料は2円30銭くらい、東京の私立中学校は2円50銭から3円50銭とされている。1円が今の15000円くらいとすると、旧制中学校で35000円くらい、私立で45000円くらいかかることになる。割と高い。逆に大正8年のデーターでは東京帝国大学の学費は年間で35円、早稲田が50円、慶応が48円(いずれも文系)で、大学と中学校の学費が変わらず、また国立と私立の差も小さい。

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