2009年7月3日金曜日

藤田謙一 1



 先週、菖蒲の咲き頃ということで藤田記念庭園に行って来た。藤田記念庭園は日本商工会議所の初代会頭の藤田謙一の別邸である。ずいぶん立派な別邸と庭である。

 藤田謙一と言えば、弘前の偉人を語る上では欠かせない人物であるが、個人的にはどうも好きになれず、このブログでも紹介するのをためらってきた。富と名声のすべてを得た人物に対するひがみか、あるいは写真でみる冷たい表情か、どうも興味がもてない。世間では太宰治生誕100年で、様々なイベントが開催されているが、個人的には青森一の金持ちの息子の太宰よりは、貧乏なまま生涯をすごした葛西善蔵に引かれるのと同じ理由か。

 藤田謙一は明治六年(1873年)、弘前藩士明石永吉の次男として、弘前市五十石町23番地で生まれた。今の西堀、さくら並木に面したところで、細長い、小さな家である。明治維新後の士族の例にもれず、かなり困窮した生活を送っていたようだ。子どものいない親類の藤田正三郎に請われ、12歳で藤田の家に養子に入り、藤田姓となった。

 明治13年には自疆小学校(後に城西小学校)に入学、その後弘前高等小学校を卒業すると、東奥義塾中学科年生の編入試験を受けるも、数学で失敗して、1年生として入学した。ただ学費が続かず、結局は2年間でここを退学した。その後、青森県庁の職員になったが、飽き足らず明治24年に上京して明治法律学校(明治大学)に入学した。ここでは優秀な成績であったが、明治27年卒業して受けた判事、弁護士試験には失敗した。明治32年には、大蔵省専売局に勤務した。当時、政府はタバコの専売制を計画しており、外国タバコを輸入して、安い値段で販売し、既存のタバコ業界をつぶす計画をもっていた。大手のタバコ販売会社岩谷商会の「天狗煙草」もたちまち、危機に陥り、高給(200円)をもって専売局の藤田を迎え入れ、会社の立て直しを図った。法律の知識と専売局の経験を生かし、たちまち立て直しに成功し、ここの専務取締役になったのが、藤田の実業家のスタートとなった。現役の役人が天下りし、最終的に国が専売化を行う際には当初より莫大に費用がかかっている訳であるから、現在では相当問題があろう。

 その後、企業の再建のプロとして活躍し、小栗商会、台湾製塩会社、南樺太石油、日活など60社以上の会社の経営を担当した。昭和3年には第5代東京商工会議所会頭、さらには初代日本商工会議所会頭に選ばれ、スイスのジュネーブで開催された第11回国際労働総会に日本代表として出席した。

 ここまでが藤田の絶頂期で、1929年(昭和4年)には、天皇即位礼の叙勲で、実業家から賞勲局総裁が賄賂をもらったとする売勲事件に連座して失脚する。その後、貴族院議員も辞職して表舞台から姿を消した。

 藤田の三男謙友の書いたとされる藤田謙一の「幻のユダヤ満州共和国建国構想」がブログで公開されているが
(http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_he/a6fhe400.html)、上京したのが16歳だとか、孫文との関係とか、かなり事実とは異なり、あまり信用できない。

 藤田は若い頃学費で苦しんだことから育英事業に精力を傾けるとともに、地元弘前にも私財を惜しげもなく投資し、大正10年には官立弘前高等学校が出来た時には1万円の寄付、また大正13年には義塾の中学校資格基本金のために1万円、昭和3年には岩木山山麓枯木平の土地、通称藤田農場を東奥義塾に寄付、大正12年には11万4000円を寄付して公会堂を建築(弘前市の負担は3万円)するなど、惜しげもなく自分の財産を寄付していった。ただ笹森儀助、山田兄弟、本多庸一、珍田捨巳、笹森順造、一戸兵衛などこのブログでこれまで紹介してきた人物との接点は、私の調査不足のせいかもしれないが、あまり見当たらない。大正9年の珍田伯歓迎会が東京で行われ、青森県出身の著名人がほとんど集まったが、藤田の名前はない。やや疎まれていたのかもしれない。公会堂もすでになく、死の間際まで「枯木平の土地を売却せず保存するように」と気にしていた藤田農園もどうなったであろう。

 藤田が弘前市に寄贈した記念庭園を見ると、お城の隣にあれだけ立派で金のかかった建物を別邸として建てる当時の藤田の財力を見せつけられる思いである。建物の中に黒石の鳴海酒造の庭で後藤新平らとともに写っている写真があった。後藤新平も菊池九郎、山田純三郎、藤田謙一など青森県人との関連は深い。

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