2010年4月12日月曜日

兼松石居


 江戸末期の津軽藩の儒学者であり、東奥義塾の創立者の一人である兼松石居の子孫の方からメールをいただいた。現在、九州にお住まいで、祖母から津軽の桜、ねぶたのことを聞いて育ったという。先祖の兼松石居のことで知っていることがあれば、教えてほしいという要望であったが、浅学のため当方もくわしくは知らない。

 兼松石居(1810-1877)は、列三郎、三郎、成言、誠など多くの名前をもつが、ここでは号である石居に統一する。石居は1810年に津軽藩上屋敷のあった江戸で生まれた。幼いころから非常に学問ができ、幕府学問所の昌平坂学問所で学ぶ。30歳になると、藩の侍に学問を教える書院番という役職があたえられ、世子武之助の教育係や蘭学塾を開いたりするが、不幸なことに世子が若くして亡くなり、その後の跡継ぎ問題に関わり、国元津軽で蟄居されることになった。48歳の時である。

 今の弘前市立図書館のあるところに蟄居され、さらには妻が江戸からの長旅で病死し、長男の妻、子供もなくすという不幸な境遇が重なった。4年で許され、現在の茶畑町で私塾麗沢堂を開き、100名を超える学生を育て、その後は藩学校の稽古館、さらには明治に入ると、菊池九郎とともに東奥義塾の創立に関わった。明治10年に盲腸炎のため、死去。67歳だった。森鴎外の「渋江抽斎」の中にも兼松石居の名前はよく出てくる。

 森鴎外「渋江抽斎」99には「石居は酒井石見守忠方の家来屋代某の女を娶って、三女二女を生ませた、長子艮(こん)、字は止所が家を嗣いだ。号は厚朴軒である。艮の子成器は陸軍歩兵大尉である。成器さんは下総国市川町に住んでいて、厚朴軒さんもその家にいる」としている。

 渋江抽斎風に言えば、兼松石居は兼松久庸(5代)と妻いとの3男で、長男久通(6代)、二男晋は加藤家の養子に行った(加藤清兵衛)。この子供が加藤武彦で、その長女せいが山中卯太郎に嫁ぎ、その長男で外交官の山中千之の妻が珍田捨巳の長女貞子である。また山中卯太郎の妹いはが珍田捨巳の妻となる。加藤武彦の三男の三吾は後に沖縄学を興す。石居は屋代氏のしんと結婚し、艮(トドム)、しほ、直(ナホキ)、郎(イツラ)、りかの3男2女をもうけた。長男艮は成田氏の美代子と結婚するが、美代子、長男於菟(森鴎外の長男と同じ名)は若くして亡くなる。次男成器は東京攻玉塾より陸軍に入り、最終的には陸軍少将になり、長寿を全うした。長女しほは、本家の久通(6代)の子穀(7代)に嫁ぐも、子供がいないため、弟の郎(8代)を養子に迎える。しほは近代的な学問を受けた人で、若くして夫に先立てながら、東奥義塾の小学科女子部で先生をしながら英語を学び、その後函館に遺愛女学校ができると、そこの教師となり、入信した。石居の二女りかは、今風の名前だが、これはペリーが来航したことに因んでつけられたようで、石居もおもしろいひとである。このりかは弘前市に今でもある長尾牛乳の祖、長尾介一郎に嫁ぎ、さすがに名前が奇抜なのか、たけと名前を変え、その子孫が現在まで続く。石居の3男直は桐渕家に養子にいった。

 つい最近まで、結婚で最も重視されたのが、釣り合いであり、お互いの家族の身分や家庭環境が同じであることが大事にされた。そのため、武家は基本的には武家の家から嫁、婿を迎えることになり、それもある程度の身分が関係していたため、同族の中での婚姻も多く見られ、親戚関係を複雑にしている。さらに先祖のことを知ろうとと思っても、母親、父親には直接聞けばわかるが、祖母、祖父となると、聞く側の年齢が若く、はっきりしたことは聞けないし、さらに祖母、祖父の父、母、つまり曽祖父、曽祖母あるいはその親類となるとよほど有名でなければ子孫が知ることはない。

 さらに続く。兼松石居の稽古館時代の弟子、藤田潜は、後に東京で近藤真琴と一緒に攻玉塾(社)を創立するが、ここに入学するのが、石居の孫となる兼松成器であり、石居の兄の孫に当たる加藤三吾である。また石居の三男郎の娘も攻玉社に入る。攻玉社はもともと海軍士官を多く輩出してところで、海軍士官学校の予備校化していたが、石居の関係者の一人は陸軍に、一人は先生、もう一人は女子部に入るというのはおもしろい。ひょっとすると、弘前、函館で学校の先生をしていたしほは上京して攻玉社の小学校女子部の先生をしていたかもしれない。攻玉社の教授陣には弘前藩校の出身者が多く、藤田潜だけでなく、山澄直清、奈良茂智、出町良蔵の名前が見える。すべて兼松石居の弟子である。また弘前市茶畑町出身の秋元猛四郎少将は攻玉社の出身である。渋江抽斎の子保も明治16年から攻玉社の教師となっている。

 写真は、石居の私塾「麗沢堂」があったと思われる茶畑町である。つい最近火事になり、広い空き地が広がる。弘前は、賢いことに江戸以来の町名を全く変えていない。そのため、森鴎外の渋江抽斎を読んでも、容易に今の場所が推測される。

5 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

広瀬先生お元気でしょうか。もう10数年前に先生をお尋ねして色々お話を聞きたいと念じながら、月日が経つていまいました。多分先生記憶がないと思います。その時は挨拶だけでした。コロナが収まったらぜひお会いしたいです。先生が色々津軽藩の人間関係お調べ頂き、心から感謝しております。3月に山中千之氏長女の明子次男山中晋次(山中家を継ぐ)夫人登茂こさんが亡くなりました。それで本行寺の山中家のお墓も東京へ移しましたので津軽の山中家の縁も遠くなりました。私は、山中千之さんの長女明子おばさま、あの有名な二千六百年史を著した竹越三叉の次男竹越熊三郎氏夫人の家で学生時代過ごしました。その関係で今東光さんや珍田家の方々と親しくさせてもらいました。山中家とも親戚になります。珍田捨身さんの家解体の時には、トラック1台に珍田さんの遺品を運びました。その中には各界の名士の書簡などもあり処理に苦労しました。
津軽藩の貴重な書類などもありましたが津軽の人々は誰も関心持ってくれませんでした。先生は津軽の方でないに色々関心をもたれ敬服しております。突然のメールで失礼します。先生もお体に気を付けてください。
 先生の近くの赤石歯科は親戚です。 三戸栄一esannohe@yahoo.co.jp


 

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントありがとうございます。珍田家と山中家は、珍田捨巳の妻、いはが山中兵部の三女、山中千之の妻が珍田の長女、貞子とダブルの婚姻関係で、強い結びつきがあったと思われます。二つほど質問があります。一つは、現在、処分した珍田捨巳の遺品はどこにあるのか、その中に英語で書かれた日記はなかったか、二つ目は、珍田家と今東光の関係です。今東光研究家から以前、この関係を尋ねられ、調べましたが結局わかりませんでした。もし何かお知りのことがありましたら、下記メールに送っていただければ、嬉しく思います。先日も、知人の青森中央大学の北原先生に珍田捨巳についての評伝を頼んだところです。山中家、珍田家については、外崎さんの”ポトマックの桜 津軽の外交官珍田夫妻物語”くらいしかなく、学術的な本はありません。

hiroseorth@yahoo.co.jp

清藤 和弘 さんのコメント...

突然失礼致します。
高校時代の恩師の本を読んでいて、先生のブログに辿り着きました。
私の知らない郷土の事がたくさん掲載されていて、大変興味深く読ませていただきました、
有難うございました。
読んでいた本(小田桐孫一著:鶏肋抄)の抜粋をコピーしましたので、ご参考までお送りしたいのですが
どうしたら良いでしょうか?
勝手な申し出で恐縮ですが、宜しくお願いいたします。
内容は、兼松石居先生の墓碑移転の話です。

清藤 和弘
kseitoh@chic.ocn.ne.jp

匿名 さんのコメント...

広瀬先生、突然のご連絡失礼致します。
兼松石居の子孫の嫁、野田典子です。
義祖母の兼松幸子と広瀬先生のこちらのブログについてよく話をしていました。
残念ながら義祖母は今年6月に96歳で天に召されてしまいました。久しぶりに兼松石居について調べていたら、こちらを見て懐かしくなりました。私も主人と12年前と10年前に弘前へ御先祖様である兼松石居先生のお墓参りに行きました。また、弘前へお墓参りと東奥義塾の見学に行きたいと思います。

広瀬寿秀 さんのコメント...

天に召されたとのこと、お悔やみ申し上げます。天国で安らかにお眠りください。
2、3度弘前でお会いしました。兼松幸子さんは、戦前の東京で高等教育を受けた、教養のある方でした。
当時、女子で青山学院に行くのはかなり、まれなことだったと思います。
私の母は、100歳になりますが、四国の田舎で育ったため、高等女学校卒でした。当時、地方の女子でそれ以上進学するのは、先生と医者だけでした。
私は会ったことがありませんが、兼松さんはご主人のことをよく話していました。よくあの過酷なニューギニア戦線を生き延びられたと思います。
こちらの来られる折は、ご連絡ください。また兼松幸子さんは、弘前に来られる時は必ず、元寺町の弘前教会に行かれていましたので、こちらに訪問されたらと思います。