2010年4月27日火曜日

明治2年弘前地図(和徳米蔵)




 今日も、明治2年地図を眺めている。見るほどにおもしろいところが発見できる。

 明治2年というと、江戸時代が終焉し、これまで侍だったひとがいきなり職を失った時期であり、それは生活が大変であったろう。これといった特技もないまま、ある者は百姓をしたり、またある者は商人になったりするのだから、多くは失敗したのであろう。この間の家族の生活は、いったいどうしたのであろうか。

 明治2年弘前地図を見ると、例えば徳田町から和徳通りに突き当たったところに、米蔵があり、ここで武士に米を配ったようだ。「和徳御収納蔵 東掛北掛に区画し、(不明)八ヶ所 月々藩士へ米を渡す所」 の書き込みがあり、他の場所にも同じような倉庫がある。ここで生活に困った武士に米が配給されていたのであろう。続く明治4年の地図では魚市場になっており、短期間の間だけこういった米の分配所があった。ちなみに魚市場は平成2年に卸売市場ができるまで、この場所にあり、年配のひとに聞くと、その記憶があるが、ここが武士への米の配給所であったことは知られていない。現在はつがる漬の鎌田屋の敷地となっている。またこの倉庫の下の空き地は廣小路と称すとなっているが、こういった通称がやっかいである。詩人福士幸次郎の生誕地は弘前市本町5番地、通称橡の木(とちのき)とされるが、これが長い間わからなかった。近所のひとに聞いて、最近ようやく今の弘前大学医学部グランドの5つの道が合流したところであることがわかった。長勝寺構の手前である。明治2年地図ではこの構も乗田兵蔵馬場となっており、それに沿って今ではない町名建詰町の名前が見られる。

 田代町8番地には、一戸谷弥の生家である船水家があり、ここで1855年6月20日に後の陸軍大将一戸兵衛は生まれた。今では一戸兵衛陸軍大将の生誕の地の標識がある。ところが明治2年当時、兵衛は15歳、藩校稽古館で勉強していたが、当時の住まいは、この地図中瓦ヶ町のところに一戸谷弥の名前があり、ここから学校に行っていたのであろう。今は大きな道になっている。

 古地図では名前が書いている方向に門があり、町名は最初の字の方が位置的に高い位置にあるようだが、この地図ではそういった決まりはない。

 東京の方では江戸の古地図をもとに現在の地を歩くことがはやっているようだが、弘前では道あるいは町名がほとんど変化していないので簡単に江戸時代にトリップできる。と同時に今もこの当時と同じ家の子孫がそのまま住んでいることが多いため、地図すべてを公開することはできない。当時は今と違い、身分の差がはっきりしていたため、それが直接的に記載されていることもあるためである。

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