2010年5月2日日曜日

明治2年弘前地図および津軽藩地図



 本日は以前からお会いしたかった大学の研究者に家に来ていただいて、地図を見てもらった。お休みのところわざわざお越しいただき感謝している。

 津軽藩全体の地図よりは、やはり弘前市の明治2年地図に興味をもたれたようだ。大きさは148cm×158cmで弘前市博物館所蔵の明治4年地図が135.5cn×164cmでほぼ同じ大きさと言ってもよい。以前、細部を写真で撮っておいたが、そのデータをお渡しした。今後の研究に使っていただければ幸いである。

 明治4年地図はこの明治2年地図を元に作られたことは間違いない。先生の意見では、目的はわからないが、明治2年10月時の地図と言っても、すぐには完成するわけではなく、計画自体は幕末に立てられたのではということであった。江戸切絵図のように印刷物ではなく、すべて手書きで手間がかかっており、津軽藩によって計画された可能性がある。版籍奉還は明治2年6月、廃藩置県は明治4年であり、この明治2年から4年というのは江戸から明治に移行する上では重要な時期であり、この前から士族の現住所を藩で把握しておく必要があったのであろう。藩としては、明治新政府の政策に伴い武士の廃止はある程度、想定済みであったのであろうか。いずれにしても明治になり、それまでの武士は失職し、この時期を境に先祖伝来の土地を離れ、あるものは郡部に移り、農作に励むことになる。そういった意味ではこの明治2年地図は江戸期の武士の在所を示す資料になるかもしれない。藩で作ったとなれば、記録が残っている可能性がある。図書館でいずれ調べたい。また来歴は不明だが、藩の重臣の手元に残ったのが、どこかで散逸したのかもしれない。

 話のついでに、今ではそういうことはないが、昔は弘前市立博物館の資料を研究者がみる場合にはつてが必要で自由に見ることができなかったという話を聞いた。未整理の資料が多くあるが、研究者の調査を排除し、そのまま放置されていたようである。研究とは自由に出入りでき、資料を閲覧できることが基本であろう。

 これで思い出したが、山田兄弟の資料のほとんどは純三郎の子供順造さんが保有し、当初弘前市に寄贈しようと考えたが、当時の市の職員の対応があまりひどく、結局は愛知大学に寄贈されたという。近年では日本天文学のパイオニアである一戸直蔵の資料を郷里のつがる市で展示できないかと所有者が申し出たが、受け入れを拒否され、結局は平成20年に国立天文台に寄贈されたこともあった。山田兄弟の資料は愛知大学で本当に宝として大切にされており、また一戸の資料も国立天文台で今後もきちんと保存されるであろう。地元民としては郷土のお宝が他のところに行ってしまうのは残念であるが、資料の保存、研究としては結局その方がよかったのかもしれない。

 これについては、地方では予算が逼迫しており、文化財保護に対する予算も少なく、十分な人員の配置もできないことも起因している。資料の保存、研究といっても費用がかかることであり、寄贈の申し出があっても、予算、場所がなければ受け入りを拒否せざるを得ない。未整理の資料にしても、専門が多岐に渡り、少ない学芸員では十分に整理することはできない。

 県、市、あるいは大学といった縦社会の縄張りなどもあるかもしれないが、少なくとも、保存に支障がないかぎりにおいては、研究者には自由に簡単に開示できるようにすべきである。それと同時に多くの資料は未だに個人が所有しており、所有者自身が歴史に関心がない場合は、全く死蔵されている可能性もある。資料としての価値があるかを判断できる窓口を博物館や弘前大学で設けるべきであり、資料的な価値がある場合は所有権の移転はないが、保管、保存、研究は公的機関で行う、いわゆる寄託であれば、所有者にとっては歓迎されるであろう。

 ところが今のところ弘前市立図書館、博物館の方針は「当図書館の書庫が狭くなってきたこと、寄贈図書の整理・登録・装備に多大な時間がかかることなどから、郷土史料や古文書類を除く一般市販本については、ほとんどのものが当館で所蔵されていることを説明し、また、古書を有効に活用するための別の流通ルートの存在を示唆しつつ、あらかじめ断っているのが現状です。」、「博物館では、開館以来、市指定有形文化財等の貴重な資料のご寄託を受け、展示等に活用しております。但し、年々収蔵庫が狭隘となっているため、現在、特別な場合を除いては、博物館では寄託資料の受け入れを見合わせさせていただいています。【博物館】(平成19年6月4日回答)」となっており、事実上市民からの資料の寄贈、寄託は拒否している。これでは誰が資料を市に寄贈、寄託しようか。また寄託された資料についても「青森では,博物館の閉館で収蔵品が行き場をなくしている。青森市内に立つ旧清掃工場の管理棟。走り書きの文字が 記された段ボール箱が,薄暗い部屋の天井近くまでぎっしり積み上げられていた。「地蔵」「馬のくら」「絵馬」「柱時計」,中にはラベルに「石みたいなや つ」という説明の箱もある。これらは,青森市歴史民俗展示館・稽古館の収蔵品だった民具など約5万点の大半だ。」(2010年4月18日朝日新聞)という。誠にお粗末である。

 NHKでも取り上げられた田中忠三郎さんのぼろ布、裂織コレクションも結局は、郷土に残ることはなく、現在東京のアメーズミュージアムに展示されている。委託、寄贈も拒否され、仮に許可されてもこんな保管状態では、今後も郷土の資料、コレクションはどんどん県外に流出していくであろう。

0 件のコメント: