2010年5月4日火曜日

明治2年弘前地図(富田新町)渋江抽斎




 森鴎外の渋江抽斎は、鴎外史伝の最高傑作であるとの評価があり、研究者も多い。私自身も興味があり、これまで何度も読もうとしたが、いまだに最後まで読めない。内容自体が難しいこともあるが、渋江抽斎という人物自体が地味で、その関連者もいわゆる歴史に残るような有名人はいないからである。鴎外が書いた時代であって、すでに忘れられたひとであり、鴎外がこういう形で残さなかったら、ほとんど痕跡すら残っていなかったかもしれない。ある意味、鴎外が渋江抽斎という本を書いたことで、はじめて名前と事歴が残った。

 昨日、岩波文庫の「渋江抽斎」をぱらぱら読んで、明治2年当時の弘前に関連するものを探してみた。もちろん明治2年には渋江抽斎は亡くなっており、その妻および家族は東京から国元に帰され、当時は弘前に住んでいた。その場所については、「渋江抽斎」その83に「富田新町には渋江氏の他、矢川文一郎、浅越玄隆らおり、」の記述がある。そこで明治2年地図を検索すると、なるほど富田新町の奥の方に渋江道順の名前が見える。またその2軒おいて右隣に矢川文一郎の名前が見える。道順とは渋江抽斎のことだそうだが、とうに亡くなったにも関わらず、この当時でもいまだ当主にしていたのであろうか。矢川文一郎の抽斎四女陸の嫁ぎ先であり、他にも記述が多い。浅越については不明である。

 他に誰かいないかと探すと、松森町側へのところに二筋入ったところに、柏原櫟蔵、山澄吉蔵の名前が見える。「渋江抽斎」その84に記載がある。共に海軍に入ったようだが、郡司らの千島探検に関係していたような気がする。また山澄の家の左の方には山鹿旗之進の名前が見える。山鹿旗之進(1860-1954)は山鹿素行の子孫であり、後に東奥義塾に学び、アメリカ留学後に牧師となった。早い時期に当主になったのであろうが、かなり長命であった。

 また矢川文一郎の斜め前当たりに、藤田得二郎の名前が見える。「渋江抽斎」その41に「当時の留守居役所には、この二人の下に留守居下役杉浦多吉、留守居物書藤田得太郎などがいた。 藤田は維新後に潜と称した人で、当時はまだ青年であった」の記載がある。藤田得二郎と藤田得太郎が同一人物であれば、後の攻玉社校長の藤田潜である。

 江戸期、弘前において富田町はやや郊外にあり、渋江家のような在府が長かった者達は、故郷弘前には家がなかったため、幕末の混乱期に富田新町というところにまとまって居住させられていたのであろうか。この地図の書かれた明治3年には武士の給料である禄が大幅に削減され、いよいよ生活に困窮するようになり、渋江抽斎子の成善も明治4年には東京に移り、その後家族も続く。明治2年というのはそういった意味では、大変重要な時期にあたり、渋江抽斎研究者にとっても、この地図は意味をもつ。今回は調べなかったが、「渋江抽斎」中にある比良野貞固は新寺町、平井東堂は塩分町にいたようで、調べれば在所はわかるであろう(塩分町には平井永二郎の名前がある)。

 富田新町は、現在御幸町、富田町となっているが、道は変わらず、ほぼ一致しており、渋谷家があったところも確定できる。

2 件のコメント:

影山輝國 さんのコメント...

広瀬さま
 突然コメントをするご無礼、平にご容赦ください。私は東京の実践女子大学の教員で影山輝國と申します。専門は中国哲学で最近は『論語義疏』という書物を研究しています。さて、鷗外の『渋江抽斎』その八十九に星野伝六郎、その子の金蔵の名前が出ておりますが、その方たちのご子孫が弘前に今もご在住か否か、知りたいのです。ご存知ないでしょうか?もしかしたらその方が、『論語義疏』の写本をお持ちではないかと思える節があるのです。
 まったく唐突のお願いで、汗顔の至りでありますが、藁にもすがる思いでお尋ねいたします。もしご存知なければ、どうかご放念ください。頓首
  影山輝國

広瀬寿秀 さんのコメント...

お返事が遅れて申し訳ござません。星野姓は弘前では少なく、電話帳でも3軒くらいしかなく、新興住宅地で、子孫ではないように思えます。「論語義疏」については東奥義塾高校の図書館に旧藩校稽古館の図書が保存されていますので、調べましたが、該当するものはありません(http://www.gijuku.ac.jp/etc/library_all.html)。もう少し、調べたと思います。詳細について下記メールにお知らせください(hiroseorth@yahoo.co.jo).