2010年8月1日日曜日

工藤忠



 清朝最後の皇帝であり、満州国皇帝傅儀の侍従武官を務めた工藤忠(1882-1965)については、青森県板柳町出身で、「弘前偉人」には当てはまらないことと、大陸浪人というイメージが強いこともあり、どうもブログで取り上げるのを避けてきた。昨年、いずみ涼氏により上下1300ページを超える「皇帝の森―ラストエンペラー溥儀と工藤忠の時代―」(北方新社)が発刊された。小説のせいか、はたまたあまりに冗長すぎ、主題が見えにくくなってしまったせいか、これだけ大部の本を読んでも工藤忠のことがあまり理解できなかった。

 このほど「傅儀の忠臣 工藤忠 忘れられた日本人の満州国」(山田勝芳 朝日新聞出版)が発刊された。この本を読み、初めて工藤忠のアジア主義者としての遍路を見直すことができ、従来の大陸浪人というレッテルを払拭することができた。

 著者は中国史を専門とする研究者で、現在東北大学名誉教授であるが、ふとしたきっかけで布銭という中国古代の貨幣の来歴を調べるうちに工藤忠にいきつく。著者はもともと青森県生まれ(どこかは不明)であったためか、戦後忘れられた郷土の偉人である興味をもち、工藤忠の生涯と当時のアジア主義を丹念に描いている。写真、注、参考文献、年表、人名牽引といい、コンパクトな本にしては、実にまとまっており、今後の工藤忠および満州国関係の定本になろう。

 同じ津軽出身者として、工藤忠と山田純三郎を比べてみたい。山田純三郎が生まれたのは明治9年(1876年)で、年齢的には工藤忠よりわずか6歳年長であるにすぎないが、中国への関わりから見るともっと年齢差があるように思える。山田純三郎が最も活躍したのは兄良政の死の1900年ころから孫文の死の1925年までで、その後は一時日中和平に奔走したりするが、表立っての行動はない。一方、工藤忠が世間に注目されるのは満州国建国後の1932年から終戦の1945年までであり、両者の活躍時期は重複していない。この1900年—1925年と1932年—1945年という時代を、元号でいうと明治32年から昭和元年と、昭和7年から昭和20年であり、両者の時代の相違がよりはっきりする。

 工藤忠の活躍期は、日本が軍部に振り回され、日中戦争、太平洋戦争に突入する時代であり、同じアジア主義の考えを持っていても、両者の行動が自ずから異なる。時代の流れにより工藤は、尊敬する郷土の先輩、笹森儀助、陸羯南、山田兄弟のアジア主義と異なる方向に進んで行った。本書75ページに以下のような記述がある。

 「工藤は郷里の先輩で中国革命最初の外国人犠牲者となった山田良政を慕い、革命派活動に加担していたものの、大統領袁世凱の政治も自己の権益中心だし、各地の混乱も一向に収まらない中国の実情を知れば知るほど、共和制には疑問をもつに至っていた。そういうときに升允に出会い、中国はやはり革命=共和制ではなく帝政でなくてはならないという考えを固めて復辞派=宗社党に転身したというのである」、工藤の手記に「一朝にして革命党変じて宗社党となる。又笑う可きかな。然りといえども余基より志、東亜保全にあり。常に革命党員の為し能わざるを慨ず」と苦しい心中を述べている。

 孫文と長年直接行動して、孫文ばかと言われるほどその思想に強く共感している山田純三郎からすれば、工藤の行為は裏切りであろうし、実際工藤は軍部の要請により上海の革命派の動向を報告していた。郷土が同じ、舞台も中国ということで山田純三郎と工藤の接点は多かったであろうが、両者は思想的にはそれほど親しい間柄ではなかったかもしれない。

 また工藤は山田と違い、体も大きく、体力もあり、また饒舌であり、誤解を招きやすい性格であったのも、戦後大陸浪人のイメージをもたれた原因かもしれない。第三革命で一万人の軍を率いて戦ったことを工藤自身誇らしげに語っているが、何の実績もない工藤がどうして革命軍の指導者になったか疑問であった。本書では第三革命を裏面で支援した日本陸軍青島守備隊の意向を受け、使えそうな青島在住の日本人として工藤が選ばれたと手厳しい。

 それでも満州国皇帝傅儀の侍従武官になってからの工藤は、最後まで傅儀に忠誠をつくし、決して軍部の言いなりにはならなかったし、敗戦後も裏切らなかった。こういった点では山田兄弟が孫文に示した純な気持ちと似通っており、やはり津軽人の気質を見る思いがする。天皇に対する強い忠誠心、尊王の思い、これは東北人がもつ純な気持ちであるが、工藤の場合、傅儀に置き換われていたのであろう。関東軍指導者は、あくまで傅儀は傀儡政権の皇帝であると、軽視していたが、これは同時に昭和天皇自身を軽視することの裏返しであり、独断的に日中戦争へ突入していった。また山田兄弟も工藤忠も、日本にいて、中国革命を手伝うという手段を取らず、中国語を完璧にマスターして、革命そのものに参加していき、あくまで日本人というより中国人あるいはアジア人として活動した。こういった強い情熱は、第二革命で戦死した櫛引武四郎にも共通するものである。

 工藤忠は弘前稽古館、東奥義塾でずいぶん剣道に精を出したようだ。明治、大正、昭和初期の軍人、一般人から今では想像できないほど剣道に対して高い評価があり、剣道の強かった工藤も、後年それが人脈作りに役立ったとの指摘が本書にあった。桂小五郎、坂本龍馬はじめ、山岡鉄舟、東亜同文書院の根津一、政友会代議士の小川平吉、朝日新聞社の緒方竹虎、民政党代議士の中野正剛ら、さらには陽明学者の安岡正篤も剣道にいそしんでいた。笹森順造が昭和14年という難しい時期に青山学院の院長になったが、笹森自身は熱心なキリスト教徒であったが、同時に小野派一刀流の達人であり、その評価が軍人に対して威力を発揮し、青山学院の存続に働いたのかもしれない。

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