2010年8月15日日曜日

中田久吉、重治兄弟





 本多庸一と並び、明治、大正の日本キリスト教史に大きな足跡を残した中田久吉、重治兄弟について触れたい。

 私自身、カトリックのイエズス会系の学校を出ているが、キリスト教関係の知識はほとんどなく、ましては複雑な分派をもつプロテスタン系については、その教義の違いについては全くわからない。その前提の上で、中田兄弟について述べる。

 中田久吉(1859—1904 安政6年—明治37年)、重治(1870—1939 明治3年—昭和14年)は、弘前市北新寺町2番地で生まれた。最勝院より日暮橋を越えたところをすぐに右折して曲がったところである。明治2年弘前地図では、白狐寺門前となっており、寺町の裏にひっそりと12,3軒の家があった。この白狐寺は今では稲荷神社になっており、新寺町から赤い鳥居が続く。比較的下級の武士であったのだろう。

 中田久吉は、できたばかりの東奥義塾で学ぶも、父を早くに失い、自活の道を探るため学校を中退し、明治7年に上京して、下士官の養成を目指した陸軍教導学校に入学した。同時期、一戸兵衛も同じ目的で陸軍兵学寮に入学した。中田久吉は、その後西南戦争に出兵し、重傷を負うも、何とか回復し、金沢の部隊に勤務することになった。ここで金沢教会に通うようになり、信仰に目覚めた。母親の面倒を見ていた次弟が急死したのをきっかけに軍隊をやめ、弘前に帰郷し、そこで小学校の先生をするも、信仰への想いが膨れ、ついに明治17年にメソジスト派の伝道師の資格を得て、本格的な伝道活動を行う。武士、軍人上がりのこの人物の伝道活動は情熱的であり、明治30年ころから弘前教会を中心に、中郡、南群の農村部を手風琴をもって廻り、説教、印刷物の配布を行い、夜遅くまで伝道活動を行った。

 弟の重治はわんぱくな子供であったが、兄の伝道活動について廻るうちに、信仰に興味を持ち、東奥義塾を卒業後に本多庸一を頼り、上京して東京英和学校(青山学院)に入学した。そこでは勉強より、柔道に熱を入れ、学業不振のため退学させられそうになったが、本多庸一のお情けで仮卒業させてもらえることになった。もともと激情的な性格がそうしたのか、あるいは郷土の先輩笹森儀助にあこがれたのか、人の行きたがらないところで伝道したいと、北海道に渡り、千島エトロフ島まで伝道活動を行った。この間、1889年には小館かつ子と結婚する。小館かつ子は弘前藩上級武士の小館仙之助の次女として生まれ、青森女子師範を卒業後、弘前学院などで教えるうちに信仰をもち、熱心な信者となる。後に婦人伝道士となったが、その頃に重治と結婚した。明治2年地図でみると若党町の奥の方に小館の名前が見られる。信仰の篤い二人であったが、千島エトロフ島での生活は困窮を極め、長男を風土病で亡くし、かつ子も病を得て、秋田大館に移る。信仰上の危機であったが、それを乗り越え、1896年に渡米して、そこで後にホーリネス活動に邁進する契機となる精霊体験を得て、1898年に帰国する。その後の活動は、Wikepediaを参考にされたい。英文でもかなりくわしく紹介されている。

 メソジストは、日本ではほとんど廃れているが、アメリカではプロテスタン系のキリスト教では2番目に信者が多い宗派で、メソジストを信仰していた大統領も多い(ちなみにヒラリー クリントンも)。メソジストでは、日課を区切った規則正しい生活方法を推奨し、禁酒、禁煙などかなり厳格な生活を求めた。武士あるいは軍人の気風にあった教義で、弘前では、武士、あるいは知識人を中心に多くの信者を獲得し、弘前は一時、質、量とも日本のメソジスト活動の中心であった。そのため、お膝元の津軽では、多くの教会が今でも存在し、学校活動、保育活動、同和問題や凶作救済活動などを東北でも早い時期から積極的に行われた。一方、昔からの祖先礼拝や天皇に対する尊王の気持ちは、そのまま残され、仏教などの他派のよる攻撃は一部にあったにせよ、それほどひどくなく、また日露戦争においても反戦を唱える風潮はほとんどない。本多庸一の場合、妻みよ子の葬儀に際しては、葬儀こそキリスト教式で行われたが、本多家の菩提寺で先祖代々の墓がある本行寺では、葬列が寺に到着しても開門されず、脇の通用門から通れということになった。交渉の結果、無事に寺門から埋葬できたが、本多は当時の弘前仏教界の高僧であった本行寺の住職ともこれを機に親しくなったようだ(同志社の新島襄の場合は菩提寺の京都南禅寺が許可せず、墓地には入れなかった)。また明治32年にカナダ出身の宣教師アレクサンダーの妻が不慮の事故で亡くなったが、その際も最勝院の理解ある取り扱いで、彼女の墓をここに作ることができた。

 弘前ほどキリスト教と武家社会がこれほど共存している町は少ない。函館や神戸、横浜のような新しく開港された都市でも、キリスト教の普及や学校建設は難しかった。数百年の歴史をもつ城下町弘前が明治の早い時期にキリスト教が発展していったのは、本多庸一、中田兄弟のような武士出身のキリスト教徒の情熱によるところが大きい。同時に上記最勝院のように仏教界、神道などの他宗教も割合寛容な精神で遇したのも影響している。ちなみにメソジスト系の大学というと青山学院大学、関西学院大学が挙げられる。

 写真上は、中田兄弟の生まれた北新寺町界隈である。奥の高いアンテナの立った家の隣あたりになる。昔は裏が池となっていた。写真下は最勝院の墓所にあるアレクサンダー夫人の墓である。付近には高谷夫婦の墓はじめ、多くのキリスト教徒の墓が並ぶ。違った宗派でも墓がないではかわいそうという住職の徳の深さを感じる。一方、この墓も心ないものにより倒され、墓碑の上部が欠けていたが、近年弘前学院100周年事業として整復されたようだ。

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