2010年8月25日水曜日

平田平三、山鹿旗之進



 先のブログで明治期のキリスト教を指導した弘前出身本多庸一と中田重治について書いた。本多、中田とも、当時日本に入ったばかりのキリスト教の熱心な伝道者として活躍したが、藩主、天皇への尊敬や先祖崇拝のような武士社会の伝統を決して捨てることはなかった。先祖の墓参りには違和感はないし、天皇との謁見があれば、一家の名誉とした。武士としての規範、生活様式とキリスト教徒としての生き方が併存したのである。このような例は、他の弘前出身の信徒にも見られることで、ここでは二人の人物を紹介したい。

 平田平三(1860-1933)は、熱心な浄土真宗の信徒であった文助の子として、弘前市茂森新町で生まれた。東奥義塾を卒業後は、東京英和学校に進学し、牧師となり、アメリカに留学、その後は横浜など各地で伝道活動を行った。弟の幸次郎(妻は儒学者工藤他山の次女)の子供にはプロレタリア文学の小説家の平田小六がいる。父文助は毎日仏前で読経していたというほど、熱心な代々の浄土真宗信徒であったから、さぞや息子がキリスト僑に入信するのには驚いたことだろう。平田平三は早い時期から、本多庸一の後継者として期待されており、実際に青山学院の理事長なども務めた。青山学院歴代院長のうち、本多庸一、阿部義宗、笹森順造、古坂嵓城(両親が弘前出身)の4人が弘前出身であることはすでに述べたが、理事長にも弘前出身者がいたことになる。青山学院と弘前市、東奥義塾との関連は深い。平田平三は、メソジスト会派の牧師にはめずらしく、仏教への造詣が深かったのは、子供のころから体に染み付いた浄土真宗の生活規範を忘れられなかったせいであろうか。

山鹿旗之進(1860-1954)の場合は、もっとすごい。山鹿旗之進は、有名な江戸初期の漢学者、兵学者、山鹿素行の直系の子孫であり、東奥義塾在校時に入信し、伝道師を志し、東京英和学校に進学し、牧師となった。入信にあたり、母は「父親が亡くなった間もないのに、事もあろうに異人の学校に入ってヤソ教の勉強をするとはとんでもない」、祖母は「大事な家督相続の跡取り息子が、生まれもつかぬ片輪者になってしまう」と泣きつかれたいう。何とか、親を説得して、明治12年に日本駐在のメソジスト教会総理のマクレーのもとに行き、試験を受け、入学を許可された。後の青山学院の前身、東京英和学校の出来る直前のことで、ペンキ塗りの真っ最中であった当時の神学校は「トレーニングスクール」と言われ、その最初の入学者は山鹿旗之進と前述した平田平三の二人だけだった。青山学院の最初の入学者が、山鹿と平田の二人と言えるのかもしれない。なにしろ開学前に入学したのだから。山鹿素行直系の子孫がキリスト教の牧師になったと当時はずいぶんと話題になったようだ。東京英和学校神学科に入学した5人の中には、平田と山鹿以外に弘前出身の山田虎之助がおり、後に青山学院神学部の教授となった。函館遺愛女学校の1、2回生がほとんど弘前出身の子女で占められていたように、青山学院の前身の英和学校の神学科も弘前出身で占められていたのであろう。プロテスタントキリスト教において、弘前というところは日本でも有数の先進地であった。実際、津軽出身の伝道師は200名以上いたという。なおアメリカ留学から帰国した後の外務次官珍田捨巳は、一時期この英和学校で英語を教えていた。

 弘前藩の藩学は、幕府公認の朱子学ではなく、山鹿素行の学であった。素行の学は必ずしも、陽明学ではなかったが、幕末に出現した私塾では、時代の風潮もあり、その要素が多分にあったのであろう。長州では同じ、山鹿流師範の家を継いだ吉田松陰が数多くの幕末の志士に影響を与えたが、北方の辺境の小藩では、当然討幕運動などを起こす力もなく、明治維新への参加も出遅れた。明治新政府への出遅れ感が弘前の若者のあせりを生み出し、それがキリスト教への傾倒に変質していったかもしれない。そこには私塾で薫陶を受けた知行合一を唱える陽明学的な心理作用が、忽然と家族、親族の反対を押切り、キリスト教徒になった背景としてある。それ故、明治のキリスト信徒は、武士的な面持ちをふんだんに残している。

 ちなみに山鹿旗之進の子孫には、渡辺プロダクション、マナセプロダクションの方がいるようで、ブログに祖父の写真が載っている(http://yaplog.jp/michan0504/archive/474)。また山鹿旗之進の妹、もと子は平田平三に嫁いだ。山鹿旗之進の弘前市富田新町の家は前のブログで示した(2010.5.4)。

 写真は貞昌寺にある山鹿家の墓、下は上記ブログから勝手に持って来た山鹿旗之進の写真である(申し訳ございません)。真ん中の小柄な老人が旗之進である。全く武士の顔である。

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