2011年2月2日水曜日

山田兄弟34


昨年12月に菅直人首相は東京谷中にある山田良政の碑を訪れる予定であったようだ。日中関係の是正を意図したもので、何でも仙谷前官房長官の進言に基づくものであったが、中国の民主活動家、劉暁波氏のノーベル平和賞授賞式を巡って中国が国際世論の批判を浴びた時期と重なったため、見送られた。

 また先に述べたように安倍元首相が昨年11月に台湾の忠烈祠を訪れた際、台湾政府からそこで唯一祀られている日本人の山田良政の説明を受けた。当然、これは台湾政府が日本に向けたメッセージで日本と台湾の友好関係の維持を示唆したものである。

 自民、民主ともに、時を同じくして山田良政をめぐる政治的な駆け引きがなされている。

 昨年10月24日のブログで 

佐藤慎一郎先生のお別れ会での拓殖大学椋木瑳磨太前理事長の挨拶として「広州の黄花岡の七十二烈士のお墓がございます。文化大革命の最中、山田良政先生のお墓に 参じようとしまして、お墓の前まで行きましたが、治安当局の阻止によってそれが適いませんので失礼いたしました」との話がある。七十二烈士墓は1911年 4月に決起され、清政府の弾圧で亡くなった革命党員72名を祈念して祀ったものであるが、どうして山田良政の墓がここにあるのか、椋木先生の全くの思い違いか、それとも少なくとも文化大革命当時まではここに山田良政の墓があったのだろうか、南京の山田良政碑と同じような新たな疑問が生じる。

と書いたが、これを補充するような記事が見つかった。辛亥革命中国版のWikepedia維基百科の辛亥革命の項で

《蔣宋美齡給廖承志公開信》中所提“再者毋忘黃花崗七十二烈士中,有對中山先生肝膽相照之日本信徒為我革命而犧牲者。”[17]查《黃花崗七十二烈士之碑》收72人姓名及1932年所立《补书辛亥三月廿九广州革命烈士碑》收14人姓名,其中並無日本人名,不知其所据何來。

17) 蔣宋美齡給廖承志公開信. 聯合報. 中華民國71年8月18日: (第1版) [2010-04-16].

とある。中国語はわからないので間違っているかもしれないが、宋美齢の手紙の中に黄花岡七十二烈士の中には、孫文の信頼の厚い日本人がいて、その人のことを忘れてはいけない。けれども今ある烈士碑には日本人の名前はないとしている。

 これに該当する日本人は山田良政しかおらず、先の述べた椋木瑳磨太前理事長の話と一致する。文化大革命前くらいまでは広州の黄花岡七十二烈士之碑には山田良政の名前があったのかもしれない。私が中国広州を訪れたのが1977年ころで、確かここも訪れた記憶がある。その頃山田良政のことを知っていればと残念である。

 山田良政の碑は、南京、中山陵よりやや離れた丘にあり楓の高い樹が植えられた楓林と呼ばれる公園のような奥の寺院入口に、十数基の革命志士の碑と一緒に祀られている(醇なる日本人 結束博治)。また良政の死に感動した歌人土屋文明の歌に

日本志士山田良政君をかなしみて孫文自ら立てし碑を見つ 
中山先生遺骸安置の白き室ともにかがやく日に来りあふ 
限りなくつづきて丘を上り来るは中山陵参拝の青少年等
もみぢしてとぶらふ国民革命烈士の霊それを助けし日本志士の霊

 これだけ書かれて、とてもじゃないが、南京の良政の碑がもともとなかったとは考えられない。外務省のホームページにご意見、ご感想というコーナがあったので、是非とも外務省によって南京および広州の良政の碑を調査してほしいと要望した。仮に壊されていたとしても、それを再建しようと提案することは、中国政府との対話のきっかけになろうと書いた。

 このことを家内に話すとあきれられたが、だが外務省ならこんなことは簡単に調べられるであろうし、これを調査することは外交上のカードを握ることにも繋がるので是非実行してほしい。谷中の山田良政の碑を訪問するよりはよほど強力なシグナルである。

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