2011年7月27日水曜日

山田兄弟38


 中国の新華社ニュースの2011年5月27日の論評で山田純三郎の記事が載っている
(http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/theory/2011-05/27/c_121465012.htm)。タイトルは「蔣介石如何讓日本戰犯幫其打內戰」というもので、日本語訳すると「蒋介石はどのように日本戦犯を内戦に手伝わせたか」というものである。

 このニュースでは「遼沈の戦いが終わった後、中共中央軍委員会は時期をみて、平津の戦いを適時発動し、華北地区の傅作義率いる国民党軍60万人を一気に殲滅しようとした。1948年11月23日に中央軍委員会の指示に基づき東北野戦軍の主力部隊は錦州、營口、沈陽に分かれて向かい、津、塘地区に進み、華北の敵に対する戦略包囲を一気に実施した。当時、国民党軍は上から下まで林彪指揮下の羅榮桓将軍率いる東北野戦軍を恐れていた。東北戦に負けた後は、蒋介石はむしゃくしゃして続けて何回も血を吐いた。東北野戦軍が関内に入り戦うことに、蒋介石は緊張し、傅作義将軍も林彪の軍に殲滅されることを非常に恐れた。蒋介石は、苦慮、心配していたところ、1948年12月12日に国民党駐日大使館参事の宋越倫から電報が届いた。日本の友人“山田純三郎から元中国派遣軍総司令官岡村寧次に、国民党軍は”剿共“作戦に続けさまに負けている。中国政府が共産党の手に落ちないようにするためには、旧軍の軍人の中に「反共軍人協会」を作り、国民党の剿共戦争に全力で支援して、不利な状況を転換し、蒋介石が行った”恩徳“に答えてほしい旨を説明したらというものであった。蒋介石の侍衛長俞濟時、子供の蔣經國から、この電報を受け取ると、山田純三郎は岡村寧次に対する建議は非常によいアイデアであり、彼らが中国に来て指揮をとり、ともに戦争を助けてもらうことに賛同すると蒋介石に進言した。」結局は敵将である岡村寧次を直接担ぐのはまずいといことでこの話しはなくなったが、後に根本博中将に協力を求めることになる。かなりまずい翻訳で内容が全く違うかもしれないが、戦局の挽回を図るため、日本軍の協力を求めたこと、それの仲介として一私人の山田純三郎に協力を求めたことがわかる。

 支那派遣軍は昭和20年9月に中国軍に対し降伏調印する事となるが、この時の中国側代表は、国民政府陸空軍総司令何応欽大将で、何大将は支那派遣軍総司令官の岡村寧次に敬意を払って応対し、日本側に自力での復員業務を認め、兵士100万・市民100万は僅か10ヶ月で日本への復員・引揚を完了することができた。また、岡村大将も早期に日本へ帰還しては国際軍事法廷での戦犯となるため、中国に残留させて中国戦犯として裁き、1949年1月26日に無罪となった。岡村大将は昭和24年1月30日に復員した。

 蒋介石が実際に岡本大将に協力を求めたのは1948年12月12日以降であり、復員前の獄中か、おそらくは日本への復員後になる。一方、山田純三郎が上海から日本に帰国したのは12月7日であるから、帰国後ということになる。岡村大将は、共産党軍には降伏せず、国民党軍に降伏した功績と戦局の逼迫で、1948年12月には無罪が決まっており、無罪にするかわりに協力を求めたのではなく、いわば情に訴えて協力を求めたことになる。

 蒋介石側からすれば、岡本大将に直接接点がないため、昔からの知人で、最も信頼できる山田純三郎に頼ったのであろうか。ただ日本に戻った純三郎は、すでに老齢で隠居の身であり、仲の悪い蒋介石からの、それもこういったきな臭い話に乗るようには思えないが、上海捕虜収容所で世話をやいた岡村大将に話は伝えたのかもしれない。

 その後、この話しは一旦流れ、実際に根本博中将が協力したのは、蒋介石が台湾に逃れた1949年6月ころとなった。当時の状況は根本中将のことは「台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡 この命、義に捧ぐ」(門田隆将著 集英社 2010)に詳しい。一方、蒋介石からの相談を受けた岡村寧次は軍事顧問団の白団を組織し、富田直亮少将などを派遣し、その後20年近く国民党軍の軍事顧問団となった。

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