2012年2月17日金曜日

東海家について




































 東海家については2度ほどこのブログでも取り上げたが、その後さらにわかったことがあるので、報告する。

 東海家は藩祖津軽為信からの古い家臣で、東海吉兵衞は弘前城築造の折には縄張りを任せられたほどの重臣であった。その子孫が、前にブログで紹介した代官町にある東海吉兵衞で、代々子孫がこの名前を使ったのであろう。正式には東海吉兵衞某、例えば幸義などの名を名乗ったのであろうが。

 「一音成佛」という虚無僧研究会機関誌(第40号)におもしろい論文が載せられている。「神如道の覚書からー祈登如月・小梨錦水・加藤西維・勝浦正山などの談話の聞き書きー」(神如正著)という論文に、文政年間(1820年頃)の尺八の名手と言われた蘭庭院の17世住職芳樹和尚(1801-1841)のことが書かれている。そして昭和11年8月23日および25日の東奥日報の記事を引用し、「芳樹和尚は津軽藩士東海正蔵氏の三男に生まれ、健蔵氏(注:当時弘前市会議員の東海健蔵)の厳父東海昌雄氏(注:明治後に改名、栄蔵)の叔父に当たっている、芳樹和尚には四人の男の兄弟があって和尚は其の三人目であるが同和尚の弟甚兵衞という人が、同藩の永井(現在(注:昭和11年当時)弘前市土手町永井薬店の祖先)に養子となり、抱節と号した俳諧師で一日に一千句を物にしてこれを西茂森町大行院に奉納したことがあり、東海家にもその控えがあったが弘前大火の際焼いてしまった。  略  何故芳樹和尚や抱節にしろ津軽藩士である東海家に生まれて藩士にならなかったのかと言うに同家の祖先東海伊兵衞(注:吉兵衞の間違いか)は大浦城に居を構えていた津軽為信公の弘前城築城の際、縄張り役(現今の監督)を務めたので、当時の慣例で城郭築城の文章を焼却し一家は落人して津軽を後に現在の兵庫県に渡り、年を経て(年間不詳)帰国鯵ヶ沢に上陸百姓をし、それより弘前市紺屋町に居住を構え、「兵庫屋」という屋号で酒造業を営んだ、正蔵氏の代になった再び足軽軽輩として士分になったが、其子供達は皆自分の望む道に落ち着いた結果であると言われている、尚東海正蔵氏は語る “芳樹和尚の事に就いては郷土史研究の方々が見えて話し、詳しく調べていましたが何しろ記録も何もなく、私も幼少の頃よく芳樹和尚の事を聞いた記憶と書き残された過去帳に依って知る外ない有様です”」

 ここでは陸羯南の新聞日本を手伝った赤石定蔵、海軍造船少将で山田純三郎とともに中国革命に関わった東海勇蔵とその兄東海健蔵の父、栄蔵は、その父親と思われる正蔵のころに紺屋町の造り酒屋で繁盛し、武士株を買った可能性がある。先のブログで指摘したように東海栄蔵の家は田茂木町の外れに付け足したようにあるには、こういった事情によるものかもしれない。芳樹和尚は東海正蔵の三男で、東海栄蔵の長男健蔵からみれば叔父ということは、東海正蔵の長男か二男が栄蔵、三男が芳樹和尚、四男が抱節ということになる。

 一方、城縄張りがいくら機密であるからといってその担当者を落人にさせることはなさそうで、東海吉兵衞にはその兄弟に伊兵衞というものがいて何かの事情で落人となって兵庫に渡ったのかもしれない。

 拙書「明治二年弘前絵図」を山道町で歯科医院をされていた成田裕先生にお送りしたところ、成田家の祖先は偶然にも在府町の山田兄弟の実家、山田浩蔵の隣の山田弥門であることがわかった。成田家に残された貴重な古文書は現在弘前市立博物館に寄贈され、研究も進んでいる。百石取り、御手廻、御馬廻の番頭などの役回りをしていた中級武士である。その後、在府町から山道町に転居した。明治四年の在府町付近の絵図も知人からいただいたが、△印の転居したものや、名前が変わったもの、屋敷主がかわったものも多く、在府町の住民も明治初期には多く、転居した。概数でいえば、ほぼ半分くらいはこの時期に転居し、郡部あるいは弘前市内の他のところに移った。士族にとって家、屋敷というのは、藩から貸し出されたもののように感じたのか、それほど先祖伝来という強い思いはなかったのかもしれない。

 写真上は赤石定蔵が撮影した有名な正岡子規像である。写真下は芳樹和尚が住職をしていた蘭庭院のさざえ堂で、日本にはこの形式のものは四つしかなく、貴重なものである。天保10年(1839)完成というから、先に述べた芳樹和尚が存命時のものである。内部が気になる存在で、できれば内部写真くらいは外に展示してほしいものである。

5 件のコメント:

kawara さんのコメント...

失礼します。文中「尚東海正蔵氏は語る “芳樹和尚の事に就いては郷土史研究の方々が見えて話し」とありますが、東海正蔵ではなく東海建蔵の間違いではないでしょうか。
私、建蔵の長男、靖の孫です。母は建蔵の孫で弘前の富田に池のあるお屋敷に住んでいたことがあり、当時の写真を見せてもらったことがあります。勇蔵氏には鎌倉の極楽寺で海水浴を教わり、養女にならないかと誘われたそうです。

広瀬寿秀 さんのコメント...

ご指摘のように正蔵では年代が合わないようで、東海建蔵のことと思われます。失礼いたしました。東海勇蔵は、山田純三郎とは親友で、中国革命にも二人で協力し合ったようです。

kawara さんのコメント...

中国革命に関わったというだけで、凄い方だったんですね。優しいおじいさんだったという記憶しか母は覚えていないようですが。東海家から持ってきた開かずの金庫があって、色々入っているみたいです。母は開けるなと言い聞かされていたようですが、将来的に資料が出てきましたら連絡します。

広瀬寿秀 さんのコメント...

東海建蔵の家は、昭和十年の地図から、弘前市冨田一丁目8番地と確認できました。今は所有者が二人に分かれていますが、大きな池は健在のようです(詳しくは大小2つの池)。場所は、冨田稲荷神社横、御膳水の前です。弘前に来ることがあれば、訪れてみてください。住宅地図では神社から少し池が見えるかもしれません。開かずの金庫に、山田純三郎からの手紙があればうれしいのですが。

広瀬寿秀 さんのコメント...
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