2012年3月7日水曜日

須藤かく 2




須藤かくについて、シンシナティーの知人より新たな情報をいただいたので、ご紹介する。ニューヨークタイムズ 1900.6.12号の記事である。ざっと訳した。

「Missionaries’ ill-fortune
シンシナティー 6.11
 アデリン・H・ケイシー医師の友人である阿部ハナと須藤かく、両医師は日本の横浜での不運を心配している。Laura Memorial Collegeを卒業した阿部、須藤医師、この二人の女性は、伝道の仕事のために日本に行き、横浜近郊の根岸病院を運営していた。この病院は彼らにより建てられ、彼らの努力により維持されてきた。ケイシー医師は最近、友人に次のように書いている。仏教徒が力を持ってきて、彼らが根岸病院を完全にコントロールしてきている。阿部と須藤医師には残って病院運営をしてほしいようだが、仏教徒はキリスト教徒に嫉妬し、彼らのコントロール下にあるここでは、キリスト教の宣教は許されなかった。3人の医師はここでの仕事をあきらめ、近くで貧しい人々のための新しい仕事をすることにした。貧しい人々のところに行って、服や食料を分配することを始めた。彼らは宣教のため小さな保養所をもった。彼らが3年間働いた根岸病院は、ここに住み、よろこんで貧しい人々のために働く異教徒の医師を見つけることができず、その後、閉院した。」

ここでの根岸病院というは、明治25年に開院した横浜婦人慈善病院、横浜根岸病院のことで、稲垣寿恵子、二宮ワカらがかかわった。二宮ワカは横浜共立女学校の同窓で、歳も同じなので友人であったのであろう。設立は明治25年4月で、院長は広瀬佐太郎となっている。この広瀬という人物は、ドイツ式医学を修めたひとで、ケイシー女史は仏教徒とキリスト教徒の対立と捉えているが、内情はアメリカ式医療とドイツ式医学の確執に起因するようである。なおケイシー女史は、長老派教会(Presbyterian Church)に属した。

前回のブログではケイシー女史は1907年まで日本にいたとしたが、1930年の人口調査では同居人(間柄をCompanion 仲間という珍しい表現を使っている)、須藤かくの姉の嫁ぎ先、成田八十吉がアメリカに来たのが1902年となっているから、この頃に日本を去り、ケイシー女史の先祖伝来の土地、ニューヨーク州、Oneidaにやってきたようだ。成田家は子供も一緒に連れてきて、ここでは農園管理を行っていただろうし、ケイシー、須藤かくは医療活動もしていたようである。その後、いつかはわからないが、フロリダ、Saint Cloudに転住し、そこで3人とも亡くなるまでいたようである。静かな信仰の家庭である。もし須藤かつが恩師のケイシーとの同居を選ばず、日本に帰ってきたのあれば、当時これだけの教育を受けた女性は日本には少なかったことから、地方女子教育のリーダー、初期の女医として、知られた存在になったのは間違いない。

これで思い出したのが、神戸女学院などの建築で有名な近江兄弟社を設立したメレル・ヴォーリズの妻、一柳満喜子である。1884年に播磨小野藩主の娘として生まれた満喜子は、女子高等師範学校から、神戸女学院、そしてフィラデルファのプリン・マー大学に留学する。恩師であるアリス・ベーコン先生の活動に共感し、養子の手続きをされ、その運動の後継者と期待されていたが、父の危篤の知らせ(実際は元気だった)で8年間のアメリカ生活を切り上げ、帰国し、ヴォーリーズと結婚する。満喜子もそのままアメリカにいたのであれば、須藤かつと同じような人生であったろうし、「負けんとき ヴァーリズ満喜子の種まく日々」(玉岡かおる著 新潮社)のような本にもならなかった。

 須藤かつは、戦前、敵性外国人になったつらい時期もあっただろうが、信仰に包まれた102歳の平穏で、幸せな人生であったろう。

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