2012年7月22日日曜日

阿部はな2

 シンシナティーに住む研究者から、須藤かく、阿部はなの情報があれば、共用しようということで、下記のような新聞記事が送られてきた。内容にも間違いが多く、また解読不明な言葉や、誤訳もあろうかと思うが、大まかに日本語訳したので載せる。


Cincinnati Enquirer  Mar 3, 1895

日本から来た若い婦人
今、シンシナティーの医科大に通っている
日本文化の多くの間違った見方
彼女らのマナーと着物彼女達のアンティークな持ち物茶道

 須藤かくさんと阿部はなさんというのは、6番街にある長老会病院附属の女子医科大学に通っている興味深い学生の名前である。この二人の婦人は彼女らの友人と先生と一緒に4年前に日本の家を離れた。日本にいたケルシー女医は,彼女らが医学の勉強を続けるべき、学費を援助して自分の母国に連れていこうと考えた。最初の年は、日本のマナーと習慣を紹介して授業料の足しにしようとイースタン市で過ごした。
 この春に卒業予定で、(日本に)帰って、病気に苦しんでいる人々の痛みを軽減しようとしていたところ、18921126日にケルシー女医と一緒にVine-streetのケーブルカーに乗ったところ事故が起こり,ケルシー女医とミス須藤は、日本では須藤さんと呼ばれるが、怪我をした。そのためミス阿部がこの二人のけが人に世話をすることになった。その後、この二人の婦人は勉学に戻ったが、卒業は1年遅れた。教授や同級生はこの学校に彼女らほど優秀な生徒はいないと言っていたが。彼女らはライフワークとして医学について何でも強い興味を持つ、一生懸命で、勤勉な生徒である。
 ミス須藤がたった10歳の時に、彼女の父親は故郷の青森の山地の小さな村から、一人息子を教育の機会に恵まれた東京に行かせようとした。そして彼女も一緒に東京に行って、勉強したいと父親に嘆願した。この520マイルの旅行は大変難儀なものであり、男達に担がれた籠で旅したり、残りの距離は船を使う。父親は娘をこんな大変な旅には行かせたくなかったが、娘をかわいがっていたので、結局は娘の希望を認めることにした。東京に到着したが、女子は学校で勉強できないことを知り、失望することになった。偶然に二人のアメリカ人が横浜で女学校を開設しているのを聞き、入学が許可されミス須藤は大変うれしく思った。そこで彼女はケルシー女医と知り合い、深い友人となった。

 ある休暇に、ケルシー女医はミス須藤と一緒に、彼女の故郷である古風な青森に行った。彼女は山地に住んでいる年取った両親からは、あまり暖かい歓迎を受けなかった。彼らはほんのわずかな外人しか見たことはなく、外人に対しては偏見をもっていた。彼女は決して居間には入れてもらえず、一人、慇懃に別の掃除が行き届いた部屋に通された。
 ケルシー女医のキリスト教への信仰が、彼らの嫌悪の理由であったが、彼女の人柄に触れるにつれて次第に親戚達の見方は変わっていった。ケルシー女医はニューヨーク、ウェストデールにいる彼女の父親の手紙を受け取っていたが、それをミス須藤に渡し、彼女は父親に訳して話した。父親は熱心に聞き、ケルシー女医の父親が娘をどれだけ愛しているかを知り、うれしく思ったし、大変驚いた。彼は感謝を示したいと、ケルシー女医の父親にプレゼントを送った。とういのも外人は自分の娘をそれほど愛していないと考えていたからである。
 このプレゼントは彼の所有するものの中では最も価値のあるものであった。350年前から彼の曾祖父、祖父、父も帯刀していた古い刀であった。もし彼の息子が生きているなら手放すことができなかったが、すでに受け継ぐものはなかった。須藤、阿部の父親はともに、武士階級に所属している。武士とはイギリスの郷士に似たものである。
 35年前に、日本では封建制度は廃止され、この階級は職を失った。戦うための訓練に明け暮れていた彼らは生計を立てることができず、貧しかった。農民になるには資本がなく、商人になるには商売で金儲けするのは潔しとはしなかった。そのため多くの侍は、生活のために人力車(二輪車)の車夫となった。横浜だけでも、20000人の男が車夫をしていた。
 日本中では、どのくらいの男達がこのような生活をしていたかというと、政府が変る前には、日本では300の諸藩と大名がいて、それぞれの大名はその財力で、20000から50000人の侍を持っており、彼らは主君のために戦うこと以外何も知らないし、できなかった。これが今、日本が示している兵士の能力の説明になるかとも思う。
 イラストでよく見る侍は、35年前の兵士である。現在、彼らは老人であり、彼らの息子は戦いの訓練をほとんど行っていないが、それでも自主的に軍に志願している。ケルシー女医は今週、日光という小さな村に住む年輩の仲間から手紙を受け取った。150名の若者が出征し、数日以内にさらに250名が出征するという。

名前の意味
船越という名前はフェリボートを意味する。すべての日本人の名前には意味がある。例えば白い谷、柳の家といった音楽的な名前もある。ミス須藤の名は“かく”は、直立したという意味であるし、阿部はなの“はな”の名は花の意味をもつ。
もし他人に対する美しいマナーと深慮が花の性質であれば、日本女性はそんな性格をもつ。日本の女性は花壇を愛し、作ることは多くの旅行者によって書かれており、“日本人の礼儀正しい生き方”はこういったことから生まれる。子供のころから女の子は自我を捨て、他人のために生きるように教えられる。彼女は他人を不愉快にさせないように、そうでなくても笑い、明るく振る舞わなくてはいけない。結婚した家庭での満足と幸福は、彼女にかかっているのは知っており、例え夫に間違いがあっても家庭の平和のためには我慢する。ミス須藤と阿部は、こういった礼儀正しいルールから出た美しい例であろう。
 この若い婦人はかなり見た目はいいと思うが、日本の美の基準からすれば、必ずしもそうでない。日本の基準では顔は楕円で、体はほっそりしていて、目はあまり小さくも大きくもなく、頬は濃い色を持つよりは淡い色がよく、額は円錐形か、日本人の例えでいえば富士山のような形がよいと記されている。
 一緒に載せたスケッチによれば、ミス須藤は座っており、四弦の楽器を持っている。この楽器は彼女が日本に来る前に一番好きだったものだったが、今はバイオリンが好きで、習っている。彼女のガウンは白いシルクでできたもので、プリズムのような色調で精巧に刺繍されている。たった100年前の物と軽んじて言うが。
 ミス阿部はスケッチでは、黒色のシルクの厚いアンティークなローブをはおっているが、ゴジャスな刺繍と手書きの染めが入っている。六代前から伝わったもので着ることはあまりないと言う。こういうことからも彼女らのすばらしいマナーがわかるだろう。

婦人の髪型と
一般にアメリカでは日本の婦人は 省略

既婚と未婚婦人
既婚と未婚婦人では多くの区別がある。結婚後に人形を保有し、楽しむことは恥ずかしいことであるが、逆に結婚前は所有者の魅力を高める。アメリカのように人形はおもちゃではなく、装飾品の一種として表に飾るものである。ミス須藤は人形を愛し、いつもその傍らに置いており、この人形の名前は清ちゃんといい、純粋でかわいいという意味である。ミス阿部の人形は、陽ちゃんといい、かわいく明るいという意味である。二人とも、例え結婚してもこの人形は古いもので、愛着も強いので一緒にいたいと言う。日本の数え方では、ミス須藤は24歳、ミス阿部は22歳だが、我々の数え方とは違っている。子供が生まれた時の年齢を1歳とし、最初の誕生日が2歳となる。12月に生まれば、次の年の1月は2歳となり、最初の誕生日は3歳となる。
 この若い婦人は多くの古くて美しい骨董をもっている。その一つは、非常に価値のあるガウンで昔は 臣下から愛された王妃が着ていた物である。王妃は彼女らの一人にそれを与え、ケルシー女医への感謝と医療サービスへのお返しとして、それをプレゼントした。もうひとつの珍しいものは、5つ足の龍が金色で刺繍された祭壇用のサテンである。これは1000年前のもので、日光の仏教のお寺で使われていたものである。ミス須藤と阿部の宗教は、キリスト教に改宗する前は仏教と神道の混合したものであった。
 日光は小さな町であるが、日本では非常に有名である。名前は“太陽の輝き”という“という意味で、日本のお世辞に、日光を見ずして美しいというなかれということわざもある。
 レポーターのためにミス須藤が日本の茶道の社会的機能について説明してくれた。彼女はアメリカの婦人のやり方があまり好きでないようだ。日本の習慣では友人の家を訪問するとき、まず召使いに来客をつげ、それから清潔な部屋に案内され、座る。召使いは主婦に“のところにまいります”と告げ、その後降りて来て、友人におじきして、挨拶し“こんばんは”という。握手するのは悪いことだと見なされている。ホストはすぐにお茶と作り、勧める。家にある最も古い陶器を、おじきをしてから、差し出し、客はさらに深くおじきして“ありがとう”という、”thank you”の別の言い方だが。
 ミス須藤は200年前の5客一揃いの珍しい陶器のカップをもっている。これらは古い時代の多くの絵の入った加賀塗りのものである。九谷という村で同じ名を持つ一門により作られたもので、最後の子孫がなくなった時に深い色合いの特殊な赤の秘密も、もはや再現することはできなくなり、光沢があり、耐久性にも優れた塗装技術も失われた。加賀陶器は今でも作られているが、かなり質は落ちる。イラストで示したカップは古い時代の加賀のひとつで、内部にはギリシャ風の縁取りがなされているが、この若い日本の婦人はギリシャがこのデザインをまねしたのでしょう。2500年前からアジアの陶器ではこのデザインは使われていますからと言っていた。」

おそらく下記イラストを参考に Cincinnati Enquirer紙上に略画を載せたものと思われるが、一番驚いたのは、イラスト右の女性が須藤かく、左の女性が阿部はなだとしている。1895年当時、須藤かくは34歳、阿部はなは須藤かくより3歳か5歳は年下であるが、どうみてもこのイラストの丸い月琴を持っている女性が、須藤かくとはいまだに信じられない。



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