2012年9月13日木曜日

兼松石居 4


 11月に弘前市の中央公民館主催の講演会があり、「兼松石居」について、話すように依頼された。兼松石居については、その子孫の方と交流があり、「はい。いいですよ」と簡単に引き受けたが、資料はほとんどなく、結局は昭和6年発刊された森林助著、「兼松石居伝」に準拠して話すことにした。診療の合間を見て、読み込んでいるが、漢文調の文体で読みにくい。

 兼松石居は、勝海舟の13歳上で、時代的には佐久間象山、藤田東湖、緒方洪庵、横井小楠と同世代といえる。つまり幕末に活躍したというよりは、その前の世代の人物といえよう。兼松石居は、ずば抜けて頭がよいひとで、子供のころから津軽の三奇童と呼ばれるほどの天才で、文武両道に優れた才能を示した。青年になると藩を代表して今の東京大学に当たる昌平坂学問所に入学し、そこでも学才が高く、先生、学生から押されて舎長に推される。寮長のようなものであるが、人物、学識が高くなければ、全国から集まった優秀な学生の中から選ばれることはない。その後は、若輩ながらその見識が期待され、世子の教育係となり、厳しい教育を行う。習字の時間に戯れて天狗のような髭ぼうぼうの鼻の高い人物を世子が書いたが、これが石居に似ているため、見つかったらやばいよねとなった。後日、石居は世子の描いた肖像画を習字の先生から受け取り、終生軸にして居間に飾ったという。

 この世子が亡くなるにあたり、その跡継ぎを他家から求める動きがあった。石居は世子の弟を跡継ぎにするのが、血縁を守る法にかなっていると断固として主張し、結局は蟄居されることになる。他には、櫛引儀三郎という学者は、次の藩主が熊本から来ると完全に決まった後に藩主に向かって諌言するという気骨の持ち主で、彼もその場で罪人となった。兼松石居と櫛引儀三郎も友人であったが、共に熱い。いわゆる漢学者といってもただ本を読むだけではなく、その教えを生き方、行動まで高めた人物であった。二人とも幕末期には、塾を開き、ここから多くの人物が出た。さらに兼松石居は水戸藩士とも親しく、その思想は尊王であり、間接的に藩論を尊王にもっていき、幕末には官軍に協力することになった。

 生徒は、先生の生き方、行動から、自分の生き方を模索する。兼松石居も誠実な人柄で、四畳の間に机と硯、いつも読書と著述、唯一の楽しみは一合の酒と豆腐という生き方であった。10代の生徒にとって、先生が自分の信念に基づき、断固として藩主、それの取り巻きに反対する姿や、質素で清廉な生活態度を見ていると、それが大きな教育になったと思われる。同じようなことは、拓殖大学の佐藤慎一郎先生にも見られ、近代中国を最も内面的に知る佐藤先生の意見は、歴代首相にも重要なものであったため、ずっと月1回、レポートの提出、意見のために内閣府に行っていた。それなりの謝礼は出ていたが、死んで棺桶には何も入れられないと、すべてその金は学生に使った。毎日、腹のすかした学生十数名を昼めしにさそって、食べさせた。自分は小さな都営住宅に住み、鮮度の落ちた魚を食べながら、訪れた学生には最も上等の座布団を勧めた。そして学生一人一人を非常に大切にし、励ました。前衆議院議員鈴木宗男さんは、拓殖大学当時はそれほど学校には行かず、中川一郎の秘書活動をしていたが、何度か、中川一郎と佐藤慎一郎宅を訪れ、その教えを側で聞き、大きな影響を受けた。
「天下悉く信じて多しとせず、一人之を信じのみにして少なしと為さぬ」(王陽明)。これは安岡正篤が好んだ言葉だが、佐藤慎一郎先生も好きな言葉で、おそらく兼松石居や、櫛引儀三郎も好きな言葉であったと考える。陸羯南、山田兄弟はじめ、こういった考えを貫いた津軽人は多い。

 兼松石居の二男、直(のおき)は、桐淵家に養子に入る。明治二年絵図では桐淵の家は一軒で、茶畑新割町に桐淵直哉の名がある。おそらく兼松直のことだと考えたが、森林助の「兼松石居伝」には兼松直の幼名を直哉と書いている。桐淵直哉は兼松直のことである。兼松石居は当時、茶畑町の私塾、麗沢堂に住んでいたと思われ、これは上図の相馬作右衛門宅であるから、二男の家とは割と近いところに住んでいたことになる。息子の直はたまには実家に寄ったのか。石居は、独り住まいだったので、直の妻は手伝いにいったかもしれない。




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