2012年9月17日月曜日

弘前の坂







 弘前は平地にあるため、比較的坂の少ないところです。お城が少し高いところにあり、その西の部分が低く、東の部分が高くなっていて、前者を下町と呼んでいます。当然、下町に行くには坂を下るわけですので、新町坂、新坂などの坂があり、有名です。

 ただそれ以外の坂はどこにあるかと言うと、意外にわからないものです。明治二年絵図をひたすら見ていますが、最近になって、坂を表す記号を発見しました。現在の地図では坂を表す地図記号はありませんが、明治二年絵図では坂の部分に点線が入っています。

 これをみるとなるほどと思わせますが、へえこんなところを江戸の人々は坂と見ていたのかと、驚きます。明治二年といっても制作者の感覚は、江戸時代の人々の感覚と思ってもよいと思います。

 弘前城では、四つの坂が記入されています。まず左の大手門から南内門に向かう道が、坂。坂と呼べるか、微妙です。下の東内門から本丸の下乗橋への道。ここも微妙です。この下乗橋から本丸天守閣への道、これはかなりの坂です。同様に西の郭から本丸への道のきつい坂です。逆に北の郭のスポーツ広場から賀田門までは結構な坂ですが、記載はありません。

 禅林街のある茂森はというと、普門院の坂、これは当然でしょう。かなりきつい坂です。あとは天満宮から城西に降りる坂、ここは古道の雰囲気があり、好きな坂のひとつです。道が狭く、あまり使うひともいないようですが、昔の道です。

 次ぎに、今の藤田庭園から鷹匠町に降りる坂は、3つ。左から今の新町坂で、ほぼ現状と同じですが、その隣の新坂は全く違い、今は広くなっています。さらに城の西門から馬屋町に降りる道、これは市民会館の裏にその痕跡が今でもあります。昔は馬屋町に抜ける主要な坂だったのでしょう。市民会館の裏に行って、柵がしている後ろの方を見ると、弘前工業高校へ、何やら道跡らしきものがあるのがわかるでしょう。下町からお城に登城するのにこの道を使ったのでしょう。

 新寺町はどうでしょう。二つの坂があります。本行寺の前から唐金橋(絵図では銅橋)を通って在府町に抜ける道で、美しい坂です。さらにその奥、専徳寺の前、加藤味噌醤油店から茂森に抜ける道、ここも美しい坂で、古い建物の加藤味噌醤油店の外観と相まって、タイムスリップしたような感覚がします。当時は南溜池が見れる美しい景勝の坂だったのでしょう。

 一番不思議な坂は、現在の弘前郵便局の前と、その北の緑町から坂本町に抜ける道です。私は毎日、この道を歩いていますが、ここを坂と意識したことはありませんでした。確かに多少は坂と言えば、坂ですが、ほんの傾斜がついたくらいのものです。ただ、緑町から坂本町への坂は、そう言われれば、夕日に染まったきれいな岩木山が見れるスポットでよく、ここでその美しい姿を見入ってしまいます。二階建て以上の建物をカットして、江戸時代の気分になれば、確かに岩木山がよく見える、坂だったのでしょう。

 住吉町の今の保健所前から稲荷神社までも坂になっていますが、ここも坂という感覚はないと思います。絵図上の坂と見なしている所は、制作者の主観によるのか、それともその当時の人々の一般的な感覚によるのかは不明ですが、その後に出来た明治四年の絵図では、北の郭から賀田門への道にも点線がありますし、鉄砲町、上鞘師町、下鞘師町、一番町、東長町、あるいは在府町、覚仙町、坂本町から土手町の道にも点線があり、より多く、細かく坂の記載がなされています。車のない時代、大八車を引っぱることも多く、ちょっとした道の高低が今以上に気になったのでしょう。こういった江戸時代の人々の感覚をしる点でも古い絵図は有効です。

0 件のコメント: