2013年3月11日月曜日

釜萢堰と大久保堰

 「新編明治二年弘前絵図」というタイトルも決まり、二校に入っている。あと一回ほど校正した発行となるか、どうもまだ間違いが多いようで、どうするか検討中である。神豊三郎と神辰太郎は同一人と考えたが、どうもちがうようで、神辰太郎の記載はすべて削除した。神辰太郎は慶応義塾に留学し、維新後は明治初期の海軍に入り、「金剛」機関長などを歴任した。明治4年、海軍少尉で、その後20年間海軍に努めたのであるので、おそらく佐官クラスにはなっていたと思うが、最終階級はわからない。明治初期の士官と兵隊との給与格差は大きく、陸軍ではあるが、少佐が年棒1200円、大尉が840円、中尉が600円、少尉が480円に対して、下士官で曹長が120円、軍曹で84円、一等歩兵卒で31円であった。軍曹以下は兵舎に暮らし、食事の心配はなかったが、階級差は大きく、明治初期の将校は地位だけでなく、給与も多かった。神家はいろいろな系統があり、神辰太郎がどの家の出であるか、はっきりせず、先日の木曜日に図書館にこもって調べたが、全くわからなかった。手塚家からの養子であるが、手塚の姓は手塚敬吉(植田町)、吉右衛門(田代町)、茂大夫(笹森町)、郡平(鷹匠町)の4名がいる。一方、神家は神覚平はじめ、29名の名があり、この中で探すのは難しい。何かの本に書いているかもしれないので、その時までお預けである。

 もうひとつわからないのが、釜萢堰、大久保堰の大きさである。両方の堰は、今やコンクリート製のものとなり、明治2年当時の姿はない。当初、今の大きさから数十センチの幅を想定し、2メートルくらの道の横、あるいはそれと交差するような形で数十センチの堰があったと考えた。交差する部分はいわゆる暗渠と呼ばれる、通路となっており、その上を石あるいは木材で覆われていた。昨日、「なつかしの弘前 庶民の歴史」(笹森貞二、森山泰太郎、千葉寿夫)を読んでいると、笹森貞二さんが明治の田町付近の思い出として、大久保堰は小川のようで、両岸には柳の木があり、この堰では大小の鮒、鰌、蟹などがとれ、近くの夫人たちが洗濯をしていたようだ。私の予想よりはもっと大きなものだったようだ。そこでもう一度、明治二年絵図を見てみると、田町近くの大久保堰は他の箇所より幅広く書かれており、また道と交差する箇所も暗渠を表す□ではなく、橋印となっている。さらに森山泰太郎さんが大正のころの若党町の思い出を語っているが、ここでは大久保堰は岩木川の支流とされ、幅は2、3メートル、深さは子供の膝までの浅瀬で、長く伸びた川藻が水中に揺らいでいたという。「私の住んだ家から東へ百メートルほど川下に、舞台セットでみる川端柳そっくりの長く枝を垂れた老木があり、その背景がまたおあつらいの白壁土蔵ときている」。ここでの川端柳は、笹森さんが住んでいた田町近くの大久保堰の姿であろう。

 ここで暗渠を考える。江戸時代の道には大小はあったが、仲町、若党町、小人町などの道幅は焼く7尺、2メートルくらいで、明治になって車両の通行に便利なように道幅が広げられた。大久保堰は家裏を這うようにして西堀から仲町、田町、宮園方向に流れているが、いくつか道を横ぎり、田町を除く部分は渠のマークの□印となっている。2メートルの道に幅2、3メートルの堰が横切るのは、浅いとはいえ、どちらかというと橋にあたるのではと思う。実際に森山さんの思い出では橋となっている。渠にあたる箇所では堰が狭くなっていたのか。渠と橋の違いは難しいが、建設省では2メートル未満を橋とは見なしていないようである。

 こういったことも今では調べるのも難しいが、2030年前までは年寄りに聞けば簡単にわかっただろうに。


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