2013年6月13日木曜日

大学南校への弘前藩からの貢進生

 江戸幕府が崩壊し、明治新政府が出来たが、当初は政府の人材がほとんどおらず、混乱した。薩長を中心とした2藩の人材だけでは、司法、外交、通商、軍事などあらゆる国務に対応することができず、明治3年7月に全国の有為の人材を集め、教育するために、各藩に石高に応じて1から3名の人材を大学南校に貢進することが命じられた。年間170両に及ぶ費用は各藩が持ちというから、政府にとっては虫がよい話である。それでも、将来は政府の中心となる官僚候補となる制度のため、各藩は選りすぐりの優秀な若者を送り出した。年齢制限があり、16歳から20歳とされ、全国から318名の若者が集まった。教育は主として洋学を中心としたもので、授業はすべて外国語で行われた。藩によっては旧来の儒教を中心にした教育しか受けてない若者も多くいたため、語学力の程度により最上級の1級から最下級の15級まで分かれ、後に外交官として活躍する小村寿太郎は1級、鳩山(三浦)和夫は美作真島藩一万石から派遣され、洋学の教育を一切受けていないので、15級からのスタートだった。鳩山は抜群の記憶力と努力で卒業時には最優秀となり、イエール大学ロースクールに留学し、日本人初の法学博士号を取得して、帝国大学法科大学教授、外交官、衆議院議長となる。後に首相となる鳩山由紀夫に連なる。

 この大学南校に学んだ貢進生からは、杉浦重剛はじめ蒼々たる人物を輩出しているが、弘前藩からは誰が出向したかはインターネット上ではいくら調べてもわからない。たまたま手帳になぐり書きした資料によれば、弘前藩からは大学南校に行ったのは川村善八、出町大助、佐々木友着?、青山伴蔵、三浦良太郎、大学東校(医学部)に行ったのは、桜田道済、伊崎文徴、佐藤玄清、湯浅正景となっている。

 このうち出町(いづるまち)大助は若党町出身で、明治2年12月に慶応義塾に入塾している記録があるので、ここから貢進生として南校に進んだようだ。その後は自由民権運動に関わる。また青森県初の東大医学部卒業の佐々木文蔚は明治3年9月に大学東校入学となっているので、名が抜けている。伊崎文徴は藩医伊崎家八代目の伊崎英則のことか。佐藤玄清の名は松木明知著「津軽の文化誌V」に見られ、また湯浅正景の名はないが、藩医として湯浅養俊の名があり、大学東校に進んだ若者は、いずれも弘前藩医の子弟であろう。他には青森県人名事典には川村善之進(1826-1868)という名があり、幕末藩校稽古館の儒学の先生をしていたが、これが川村善八と思われる。上京したのが42歳であるから、若者ではない。

 藩日記の明治二年919日の記に「青森表罷在候御預人塾内英学生工藤勇作、青山伴蔵、三浦良太郎罷越英学稽古之儀之事」とあり、函館戦争で捕虜となった幕臣林桃太郎から英語を学んだとしている。大学南校に進んだ青山伴蔵、三浦良太郎の名が見える。他にも佐々木元俊の養子、佐々木金太郎(文美)も英語を学んだようで、佐々木友着?はこの金太郎のことかもしれない。林桃太郎は捕虜として弘前にいたのが20歳くらいであったが、英国に留学し、抜群に英語ができたという。経歴から明治の外交官、政治家の林薫(はやし ただす、薫三郎、東三郎)のことであろう。16歳から2年間、英国に留学し、1869年5月から1870年4月まで弘前藩預かりとなった。当時、日本でも卓越して英語のできた人物で、工藤、青山、三浦にとっては得難い英学の先生であったのであろう。その後、1870年5月まで林薫に英語を学び、その年の7月には大学南校に行ったのであるから、他の若者よりは英語ができたのであろう。工藤勇作は1877年に東京下谷徒町で工藤学校分校という英語私塾を開業している。

 ただ明治3年に大学南校、東校に学んだ弘前藩の若者達のその後については、ほとんど不明である。藩を代表して、大学南校に学んだ秀才であるから、明治期において何らかの活躍があってしかるべきであるが、全く痕跡はなく、不思議である。大きな挫折があったのかもしれないが、今後の研究が必要であろう。


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