2013年7月21日日曜日

明治十年地籍図

 荒町付近の古絵図の製作年代について、人名から検討している。明治二年絵図が士族を中心とした絵図である対して、この絵図は平民を主体とした地籍図となっている。

 荒町のはずれに、兼松郎の名がある。明治二年弘前絵図では、兼松艮と変わっている。弘前藩の儒学者、兼松石居の長男が艮で、郎は三男である。10歳の時、万延元年に兼松本家の穀の養子となった。穀は明治5年に亡くなり、兼松本家を継いだ。その子、七一は朝陽小学校の明治11年〜20年入学者の中にその名が見え、その当時の住所は塩分町となっている。兼松七一は、同校入学のキリスト教指導者の中田重治(1870-1939)と席次が近いので、明治十一、十二年ころには兼松郎は荒町から塩分町に移ったものと思われる。となると兼松郎が荒町にいたのは明治五年から十一年ころ思われる。

 鷹匠町小路に阿保良助の名がある。北海道、山鼻に明治9年5月に入植した屯田兵の記録の中に、名に阿保良助(青森県)がいて、同一人物であろう。自宅を弘前に残したまま入植した可能性もあるが、一家をあげて北海道に移住したとなると、この絵図は明治9年5月以前となる。

 明治二年では馬屋町の白取数馬の名が、この絵図では白取良之助所持地となっている。白取数馬は、文政六年生まれ、明治三十一年没のため、子供の良之助に家督を譲ったのだろうが、その年は不明である。

 工藤主膳の名があるが、これは漢学者の工藤他山のことである。工藤他山は文政元年生まれ(1818)、明治二十二年没(1889)で、この図で、他山の私塾、思斎堂の位置は、馬術師範、有海家の敷地というよりは、馬場に入ったところで、幅十間(18m)、奥行き二十間(36m)の敷地であったことがわかる。これまで思斎堂は有海登邸とされていたが、さらに絞り込め、明治二年絵図の馬庭からさらに馬場に入ったとところになる。ちょうど「そば かふく亭」の前あたりになろう。

 この絵図は、下町の南半分で、地籍図であれば、他の地区のものもあるかと思い、今日、図書館に行って来た。弘前市立図書館には、津軽家文庫、岩見文庫、成田文庫、八木橋文庫など、多くの重要な書籍があり、そうした書籍の蔵書目録を調べた。ただこの目録には題名、出版社、時代などは書かれているものの、それ以上の情報はない。図書館受付で聞いても、コンピューターで検索できるのはそれだけのようである。それ以上、知るためには、現物を奥の倉庫から運んでくる必要がある。ある程度、絞りこんでから現物をみたいものであるし、効率的である。蔵書、主として古文書については、将来的にはデジタル化していくべきであるが、膨大な予算と時間がかかり、今のような市の財政難では実現は難しいであろう(ほんの一部については公開されている。http://school.nijl.ac.jp/kindai/kindaiDB.html)。できれば、書籍なら表紙、文章、図ならその一部を写真にとり、寸法とともにデータベース化くらいはできるであろう。バイトでもいいので、一日に50冊くらい撮影すれば、年間250日で12500冊、これくらいは何とかなるのではないだろうか。図書館のHP上で公開してもらえば、利用者にとっては大きなプラスとなる。同様なことは、まだ未見で一度は覗いてみようと思うのは、東奥義塾高校の図書館で、ここには藩校以来の貴重な書籍があり、在校生というよりは研究者に活用されるべき資料である。できればこういった書類もせめて表紙だけでもデータベース化して公開してほしいものである。

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