2013年12月8日日曜日

東京オリンピック






 2020年、東京でオリンピックが開かれる。待ち遠しいが、私らの世代にとっては、オリンピックといえば、1964年の東京オリンピックである。1956年生まれの私は、ちょうど8歳、小学校3年生であった。すでに我が家にはテレビがあったが、思い切ってその年に最新型の二代目のテレビを購入した。それまでのものと違いコンパクトなものであったが、性能は飛躍的に優れたものであった。旧来のものは、回転式のチャンネルを廻す度に、外枠を動かし、感度を調整していたが、そういった操作も必要ない。

 学校から帰ると、すぐにテレビの前に座り、一日中テレビを見ていた。当時は、日本のメダルが期待できない種目の放送はなかったので、サッカーなどの放送はなく、もっぱら体操、陸上、バレー、柔道、レスリング、水泳などが放送されていた。この中でも一番のハイライトは、バレーの日本対ソ連戦で、日本が勝った時には、町中に「ばんざい」の声が響いた。こんな経験はそれまでなかったため、印象深い。

 学校では、市川崑監督の「東京オリンピック」が上映された。小学校では2ヶ月に一回くらい映画上映があったが、主として、学童用の教育映画で、映画館で上映中の映画を上映するのは初めてであった。カラーで初めて見るオリンピックには感動した。

 今でも「オリンピックマーチ」、「祝典行進曲」を聞くと、オリンピックを思い出すだけでなく、当時の生活まで思い出され、懐かしい。ちなみに両行進曲は戦後生まれの行進曲の中では最高傑作であろう(戦前では「軍艦マーチ」と「君が代行進曲」)。昭和39年というと、高度経済成長真っ最中で、昨日よりは今日、今日よりは明日はより豊かで幸せな日であるという実感があった頃で、みんな目をらんらんとして働いていた。家の前の今では人通りも少ない道も、旭硝子の工場に行く工員たちでいっぱいであった。朝と夕方、多くの人が通り、それを見込んだ酒屋、飲み屋、食堂、お菓子屋があった。煙突から出る煙は日本の反映を象徴するもので、それにより洗濯物が汚れようとあまりかまわなかった。

 夕方になると、藤でできた買い物籠を持った主婦が、尼崎センター市場に集まり、夕食の買い物をした。よく母親と一緒に買い物にもついていったが、玉子屋では生卵は大きな箱のもみ殻に入っており、店主が一個ずる電燈にかざして新聞紙でくるんだ。卵に中にひよこがいるのがあるのかと、奇妙に思った。お菓子は、ガラスのケースに入っており、それを袋に小さなスコップで入れ、秤ではかって売っていた。当時、五月みどりさんの「コロッケの唄」、(いつもコロッケ、明日もコロッケ)、がはやっていて、曲の内容とは違い、子供はコロッケを欲しがった。そういった訳で私の当時の一番のごちそうは洋皿にコロッケが2個とキャベッツの千切り、そしてごはんとみそ汁といった案配であった。コロッケは2個しかなかったので、ちょっと食べてはご飯を二三口食べ、またコロッケを少し食べてはご飯であった。今こんな食生活をすれば、随分やせると思えるのだが。

 今度の東京オリンピックも娘達には、私たちの世代同様に思い出の深い大会になってほしいものである。

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