2014年2月23日日曜日

弘前藩領絵図 藩境から




 秋田藩(久保田藩)と弘前藩の藩境を見ていると、現在の青森県岩崎村と秋田県八森の間に御境明神(跡)というのがあります。ここの解説を見ると、昔この明神の左右には小川があり、弘前藩側を「内はらい川」、秋田藩側を「外はらい川」と呼んでいたようです。弘前藩領絵図では明神を境堂とあり、珍しく小さなお堂のような絵があります。また川の名は「ハライ川」となっています。ここが藩境となっていたようです。

 南部藩と弘前藩の藩境は、狩場沢の二本又川(境川)です。ここには二つの塚があり、四ツ森、四ツ塚と呼ばれています。絵図では「ハライ川」のとなっています。秋田藩との藩境の川と同じ名前となっています。「ハライ」は払い、祓い、解除などと読めるますが、どうやら他藩との境の川をさす古語だったのかもしれません。藩を越える場合、この川でお祓いをして体を清めるような気分だったのでしょうか。それともここから他国の人々を追い払ったのでしょうか。その他の絵図で「ハライ川」の名称はないように思えます。

 いずれにしても弘前藩領絵図では、秋田藩、南部藩と弘前藩の藩境には「ハライ川」という名称を用いていることがわかります。ご存知のように弘前藩と南部藩は昔から仲が悪くて、藩境についてもずいぶんもめたようですが、最終的には正徳年間(1714)には幕府の裁定で、藩境が正式に決まりました。両藩の境は四ツ森を除くとほとんどは山の中ですので、石高などは関係なさそうですが、入会権や鉱山開発のため、ごたごたが起きます。藩のメンツもあったようで、境界の決定には両藩で相当もめたようですが、幕府にとってはどうでもよく、きちんとした国絵図を作るため藩境を決定することが大事だったのでしょう。結局は、元禄の国絵図の製作過程で、藩境が決まってしまったようです(1700年ころ)。

 この弘前藩領絵図は、1790年以前のものですが、藩境に関連する記載が多いように思います。先の「ハライ川」もそうですが、それに続く山側の藩境を「此界川より南の方、炭塚山まで峯道南部領国堺(境)」としている。具体的には大烏帽子山、三角嶽、柴森、小川嶽、石倉嶽、膳棚山、芦柄嶽そして灰塚(炭塚山?)の稜線が藩境となるようです。この炭塚山(炭塚森 標高576m)は江戸期、弘前藩、秋田藩、南部藩の3藩の境であり、現在は青森県平川市と秋田県大館市、小坂町の3市町の接点となっています。

 弘前藩領絵図における狩場沢からの藩境、「ハライ川」から続く、山を挙げると、大烏帽子山、三角嶽、柴森、南嶽、小川嶽、石倉嶽(耕田嶽)、檜?峯、横嶽、膳棚山、芦柄嶽、炭()塚、三本杉、逢?吉嶽、石之塔、高倉嶽、泊嶽、女嶽(向白神嶽、奥に白神嶽の名があります)、大鉢森と続き、秋田の「ハライ川」となります。現在の八甲田山は耕田嶽の名称で、南嶽、小川嶽、石倉嶽の3つの山の後ろにあります。藩境付近の山をくわしく記述しています。

 弘前大学所蔵の津軽領元禄国絵図を調べると、藩境については狩場沢の「ハライ川」は「境川」となり、そこから烏帽子山、耕田山、十和田嶽、蛭飼嶽、清水峠、三本杉、湯之沢?山、石之塔、朝然嶽、佛場森、?智嶽、???、?名山、東?打嶽、西?打山、そして境川となっている(崩し字が読めず、すいません)。ハライ川が境川、その他の烏帽子山、耕田嶽、三本杉、石之塔くらいが一致するだけで、大分違います。少なくともこの弘前藩領絵図は元禄国絵図を参考にしたものではなさそうです。

 現在でも尖閣諸島、竹島など国境をめぐる紛争がありますが、江戸時代もこういった藩境をめぐる問題があり、その確認には絵図が最も重要となってきます。



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