2014年7月21日月曜日

黒石美人 澤村春子



 黒石の益子家について、近代デジタルライブラリーを調べていると、東奥日報が出版した青森大観という本(大正15年)に澤村春子という女優のことが載っていた。最初、杉村春子のことかと思ったが、いかにも女優という名の本名である。サイレントトーキー時代に活躍した女優である。手持ちの『キネマの美女』(文藝春秋、1999)を見ると、明治34年、北海道礼文島生まれとなっているが、大正15年の東奥日報を見ると、両親とも黒石生まれの黒石美人である。1920年に松竹キネマ俳優学校、同研究所に学び、『路上の霊魂』でデビューとある。俳優研究所は小山内薫が主催したもので、青森出身ということも小山内に可愛がられた理由かもしれない。23年には日活向島に入社。『敗残の唄は悲し』(溝口健二)等、深刻劇のヒロインが当たり役。24年に時代劇部の移り、尾上松之助の相手役に。20年後半には次第に脇役に落ち、32年に退社。34年稲田春子の名で日活多摩川の大部屋に、57年、流転の末、青森県で駄菓子屋の女房になったとある。映画女優となったが、トーキーの波に乗り遅れたスターの一人で、映画界を去った後は、郷里黒石に帰り、ひっそりと暮らしたのであろう。Wiekpedia によれば青森県浅虫で88歳で亡くなったとある。1989年だからつい最近のことである。

 旧姓は鈴木、よくある名だが、黒石藩家老も勤めた鈴木家(前のブログに載せた図、西門近くに鈴木家がある)に連なるのかもしれない。維新後、多くの士族は窮乏を極め、北海道に移住した。春子一家もついには、故郷を離れ、北海道礼文島に一家で移住することになったのだろう。その後、澤村という伴侶も得て、東京で暮らすことになった。同郷の小山内薫(父が弘前出身)のつてもあって既婚であったが、映画女優となったのであろう。

沢村春子(明治34年1月10日生まれ)
 青森大観 大正15年 コマ番号24

日活京都撮影所の沢村春子と言えば、苟もキネマファンで知らないものがあるまい。然し、その春子が黒石町出身だという事に至っては知っているものは稀れ。尤も春子の父親は明治41年頃黒石町から北海道礼文島尺忍村へ転居しているので、戸籍上ではもちろん北海道出身となっている様ではあるが。
春子の父は黒石町大字乙徳兵衛町で鈴木某(礼八?解読不明)といった。母は南郡中郷村大字袋井というよりも黒石下川原と称する部落のものであるから、春子は立派な黒石町出身なのである。現に黒石尋常小学校に二年ばかり入学したのだから。
春子の沢村姓を名乗ったのは良縁の沢村某(不明)という人に嫁いだからである。現在もやはり夫君と京都市上京区大将軍一条通り坂田町十番地に真新しい表札に本名其のままの沢村春子と記して住居している。
ところで春子のキネマ界に入ったのは、大正九年東京市外蒲田に小山内薫氏が映画研究所を設立した。当時始めて研究生として入学したのである。???研究所で学んだ連中には鈴木伝一、南光明、根津新、奈良真養等がある。その後、大正十二年一月、日活改革の??、春子は松竹を去って、日活に入社した。そして日活での処女作品「白痴の娘」に主演して一躍スターとして重用される事になった。
東京大震災後、日活会社は、東京撮影所を京都に併合した時、松之助に嘱望されて、遂に剣劇専属となり今日に及んでいる。以下略。


 デジタルライブラリーは解像度が低く、拡大しても判読できない。元本が弘前市立図書館にあるので、調べればもう少し、判読できよう。

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