2014年8月18日月曜日

津軽のキリシタン


 津軽とキリシタンと言ってもぴんとこないかもしれないが、江戸時代初期に大阪、京都、播磨のキリシタン信徒が津軽に流刑されてきた。初代藩主津軽為信は、キリスト教というか西洋文物には興味があったようで、これは戦国時代の一種の流行であった。実際、為信の長男、信建、および弟の信枚(二代藩主)も父の命によりキリシタンとなっている。中央の流行に遅れまいという気持ちもあったかもしれない。ただ熱心な信徒というものではなく、その後、幕府による禁令が出ると、一斉に棄教している。

 慶長年間、正確には慶長19年(1614)に71名のキリシタン信徒が津軽に流され、これを“慶長19年の大追放”という。キリシタン大名の高山右近、内藤如安など148名がマニラ、マカオの国外に追放されたが、同時に徳川家康の発案で国内、津軽にも追放された。仙台の伊達政宗は領内に依然としてキリスタンをかくまっていたが、奥羽一円に禁教の影響を与える意味で、本州の一番端の津軽に追放した。津軽に流されたキリシタンは京都の分が47名、大阪が24名であった。姫路の宇喜田秀家の一族である宇喜田休閑(ヨハネ休閑)とその息子三人、加賀前田藩の1500石取り柴山権兵衛、品川九郎右衛門、奥村外記、京都の医者、マチアス松庵とその妻アンナ、京都慈善会のアントニオ良久、阿波藩、蜂須賀至鎮の孫、ジュアンとその妻マグレナ、長崎殉教者パウロ三木の兄弟、ペドロ庄五郎などの名がわかっている。71名の大部分は士族で、一部医者や僧侶がいた。

 一行は京都を出発し、敦賀から日本海沿いに船で進み、鯵ヶ沢に上陸し、そこから弘前城下に向かったようだが、居住地についてははっきりしない。「誰も語らなかった津軽キリシタン なぜ歴史はこの事実を見落としたのか」(坂元正哉、昭和55、青春出版社)によれば、著者は鬼沢村を流刑地と推測している。郷土史家の松野武雄さんも鬼沢村は昔、備前村と呼ばれ、身分の高かった流刑人、宇喜田休閑が備前出身によるものだとしている。ここで荒れた土地を開墾して農業を行っていたが、キリシタンへの弾圧はさらに厳しくなり、元和三年(1617)の八月四日に六人のキリシタンが岩木川河畔、現在のニッカ工場近くの通称、四ツ堰あたりで処刑されたとされている(松野武雄)。この堰については、岩木川の流れも変わり、今では全くわからなくなっているが、向外瀬方面の農地灌漑に用いられたものであった。現在の明の星幼稚園近くには、処刑者の供養のための稲荷神社があったが、その後、2度にわたり移転し、現在はかなり南にある。この地に修道院があるのは、信仰の象徴として意義深い。処刑された六名は、流人の一人で医者のマチヤス勘蔵とその妻、マリア、レオ・ドーティとその妻マリア、流人のレオ・ジョースシ、弟子のミカエル・ニヒョーエという武士の計六名、あるいはレオ・ドータイ、その妻マリア、ミカエル・ニヒョーエ(仁兵衛)、レオ・シンスケ(新助)などの土地に人、四名と京都から来た流人、マチヤス・ショーアン(松庵あるいは長庵)とのその妻アンナの計六名であった。

 その後も、キリシタンの受刑は続き、1625年には大和のトマス助左衛門とその小姓、1626年には播磨のイグナチオ茂左衛門、1638年には73名が処刑されている。それ以降は切支丹改帳が作られ、1755年の津軽大光寺組切支丹人別改帳では男女3762人の内、切支丹(親族)3163人、その他の宗派595人とある。大光寺組は、大光寺村、木町村、館田村など、現在の平川市(平賀、尾上町)にあたるところである。以前、平賀の方よりメールをいただき、先祖は大阪のトサというところから来たとのことであったが、トサは土佐ではなく、十三と考えられ、キリシタン信徒であった可能性が高い。隠れキリシタンとして後世まで信仰を守ったという記録は一切なく、江戸の早い時期に信仰を捨て、土着化していったのであろう。津軽に流刑されたキリシタンは鬼沢、平川の地で農民として信仰を捨て、生きてきたのであろう。江戸中期以降のキリシタンの記録はほとんどない。

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