2014年9月23日火曜日

慧相 10号 「今東光と津軽の人たち」ー山田良政との関わり



 大阪の矢野さん、北海道の漢さんの二人の今東光オタクが主宰している今東光文學研究會の雑誌「慧相」の第10号((2014.9)に「今東光と津軽の人たち」と題した拙文を掲載させていただいた。この二人の今東光和尚に対する傾倒ぶりは半端ではなく、今東光に関するあらゆる資料、記録を集めている。大学の研究者の文学論文では、あるテーマを見つけ、それにそった資料を集め、検証するが、この二人のやり方は、こういった象牙の塔に住む住人とは全く異なり、その根底に今東光和尚への深い愛があり、学術的とか、そういったこととは無関係にすべての記録の収集と記録、そしてその考察を行っている。そういった意味で、最初にオタクと呼んだが、全く悪い意味ではない。

 一度、図書館で雑誌「慧相」を見ていただければ、わかるが、その内容はおそろしく詳しく、今東光研究の分野ではこの二人のかなう者はおそらくいない。現在、この二人だけで10号の雑誌を発表していて、いつまで続けるのかわからないが、この雑誌がおそらく今東光研究の本邦における基本的な情報、文献となることは間違いない。100部発行という全くマイナーな雑誌ではあるが、今東光という極めて狭い分野で考えるなら、これほど重要な雑誌もなかろう。お二人の今後のますますのご研究を期待したい。

 私自身、つい最近まで今東光は大阪、河内の人とばかり思っていたくちで、ほとんど本を読んだこともなかった。こういった私が今東光研究の最重要雑誌に寄稿したのだから、恐れ知らずのことである。まあ、軽い読み物と考えていただければ幸いである。著作権は雑誌にあるが、一部紹介したい.興味のある方は研究會の方でも販売しているようなので、購入してください。


 今東光の初恋は、函館の遺愛女学校の幼稚園にいた時で、明治37,8年ころである。その相手は、山田良政の妻、山田(藤田)敏子で、当時、敏子は278歳であった。夫の生死もわからぬまま、弘前女学校に3年ほど勤務した後に、遺愛女学校に移った。そこの生徒に今東光がいた。今東光の母、綾とは遺愛女学校の後輩で親しく、今一家が神戸に転居してからも交際は続いた。そのため今東光自身も敏子の夫、良政のことは子供のころから話に聞いていた。

 『山田良政への東光の憧れは、「実は僕も山田家とは因縁あって良政未亡人敏子さんには可愛がられたのです。というには未亡人が母の仲良し友達だったからで、この小母さんに叱られると良政のところに送ると言うんだね。ところが僕は内心それを望んでいたな。革命の何たるかを知りませんが、その辮髪の奴らと戦うということに興奮したんです。彼奴等は悪い奴で中国人(漢民族)を虐めるから退治しに良政さんは行っていると聞かされていたので、それなら此方も弾丸拾いぐらいは手伝えると考えていたんだな」(「毒舌日本史」、文春文庫、1996)と言っている。山田良政の亡くなったのは1900年、東光はまだ二歳であり、上記文はおかしいが、良政の戦死が最終的に確認されたのは1922年になってからであり、それまでは行方不明とされていた。東光の幼い時の記憶であろう。孫文を見たという上記の日出海のエピソードは兄、東光にはもっと強烈な思い出で、「彼(孫文)はそこに並んでいる学生の頭を撫ぜて通り過ぎたが、僕がこの革命家を讃美の眼で眺めている前に来ると、柔らかい大きな掌で僕の坊主頭を撫でてくれたのを覚えている。恐らくは僕は支那の狡童のような面をしていたので、同じ支那の少年と思われたのではあるまいか。僕の叛骨は実はこの時以来、孫逸仙から受け継いだと思っている」と大変な感動であった』(「東光金蘭帖」、中央公論、1978

 孫文は何度か、神戸を訪れているが、年代的には1913年3月に神戸を訪れたときのことであろう。東光15歳で、関西学院中等部入学前の出来事である。弟の日出海(当時10歳)の記憶では、母と一緒に出迎えてお辞儀をしただけだったようで、今東光の創作かもしれないし、この時、孫文に同行している同郷の山田純三郎の手引きがあったかもしれない。東光は、後年、文壇の寵児になる前の無名の時期にも、師匠の谷崎潤一郎、大親友の川端康成は当然として、それ以外にも、森鴎外、芥川龍之介、夏目漱石等歴史的な人物に会ったり、また航研機で有名な藤田雄蔵中佐を幼なじみの友達だったり、不思議な縁に恵まれた人物である。さらにここに孫文が加わる。

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