2015年4月20日月曜日

今和次郎とジャンパー姿



 考現学者の今和次郎は、どこに行くのもいつもジャンバー姿で有名です。本人へのインタビューにもそのことを触れていますので、一部紹介します。それにしても変わった人ですし、津軽ぽい方です(弘前市立図書館でコピーしてきたものですが、本の題名は書き忘れました。昭和32222日の新聞記事です)。


 ワタクシは、お弔いの時はこうしています。まず正式通知をうけていない知己の場合は、自宅にいたままで、両手を合わせて拝む。御仏だからこうしても、自分の心が通じるし、第一わざわざ出かけてゆくための時間がほかに使える。次は通知をうけた場合であるが、この場合は、お悔やみをのべるかたがた出かけてゆく。もちろん不断着の小ざっぱりした服装(注:ジャンバー)です。ところが問題なのはお香典ですね。いろいろ考えた末遂に一昨年からお香典は一切無記名にすることにした。のし紙も、何流という幾つ折などはとらわれない。仏前でご焼香の際にこっそりあげてくる。お香典返しなどは必要ないことだよ。差上げられたものは何でも有難く頂戴して心を温めておいた方が宜しい。得だよ。お葬式のことでこんなことがありました。ある著名な方のお葬式があって、立派な通知状をもらったので、出かけていった。葬儀場にいって、受付係へ申しでたら、受付子、しきりに頭のてっぺんから足の爪先まで点検する。礼装でない、ジャンパー姿のボクを、どうもウサンくさそうに見ている態度です。そこで、こちらが気を利かしてそのまま、さっさと家に帰ってしまった。早速、はがきに絶交状を書いて送ることにした。

 本日、貴家の御葬儀に参列するため参上しましたが、受付の者余りにそっけなない応対をするので、その場から帰宅しました。以後このような家風とのつきあいは致したくありませので絶交いたします
右に通知します。

—とね。ところが、ひととおりのお弔いがすんだ頃、当のご主人、夫妻がお土産を携えて訪ねてきた。玄関へ入るなり平身低頭

—いやいや、先日は、まことにご無礼なことをしたそうで、きょうは二人でお詫びにまいりました

という工合、こちらも、そうとわかれば、どこの国のように拒否権を発動するつもりはないのだから。さっさと仲直りしてお土産を受取り帰ってもらった。さて、と。大声で“早くお茶を沸かせ”という工合、近所の子供たちも呼んで、お土産のお菓子を戴くレクリエーションと相成るわけです。
 ですが、ワタクシも困ってしまったことがあったね。それは前アメリカ大使アリソン氏から正式のパーティーにお招きされた時です。いままでは、日本国内における公私の交際ですが、こんどは国際的な招待ですから、国際慣行にならった礼装にしなければ失礼にあたるだろうぐらいに考えないわけにはゆかない。ずいぶん考えた末、前日までは、こんどというこんどはお隣から、出席するための服とネクタイとピカピカ光った靴を借りずばなるまいと考えたーそうはしてみたものの、どうもサッパリしない。そんなことしちや、これまで自分が築き上げてきた生活実験者の地位が、一ぺんで崩れてしまう。それにバックボーンが失われて物笑いにならないとも限らない。そして当日になって重大決意をしていつものように小さっぱりしたジャンパー姿のままで出かけていった。
 略
 ワタクシの生まれはね。弘前市百石町、下町で育ったんです。小学校は時敏、東奥義塾、東京美術学校卒というコースで弟は今純三ですよ。大正九年早大教授になり昭和五年から六年にかけて欧米を見学したりしました。本職は理工学部の建築などということになりましょうが、終戦後は、もっぱら衣食住生活の合理化に取り組んでいます。ですから五代将軍綱吉が始めた小笠原流的礼儀作法とか、消費経済からの流れをくむ文部省家政科教育に大いに学問的批判をくわえて来たのです。それで、小笠原流家元から抗議をうけたり、全国の家政科の先生を敵に回したりしているわけです。結婚したのは四十一歳。もちろん初婚、相手も初婚で、いろいろな事情からおくれたわけですが、動物的恋愛ではなく人間的結婚をしました。晩婚ながら六十九歳のこんにちまで一男四女をもうけた次第。母が亡くなった時、仏前で誓いをたてる結婚で、妻は信玄袋二個を持ってきました。清き交際七年、自然に握手する形でしたから三三九度の杯はけがらわしいし、自給不足を涙で覚悟してのスタートを切ったわけです。娘も二人昨年結婚しましたが、神前結婚で経費はたったの三百円、父のボクは中身はお知らせには及ばぬ餞別を差上げ自然に子供も独立しています。生活実験者のいまの心境ですか。それも抵抗がありますから、ただ自ら実効あるのみです。言行一致しないために、つるし上げられるようなことはないですね。


0 件のコメント: