2016年1月2日土曜日

明治九年 東奥義塾天覧授業 2


 青森での天覧授業について、ドナルドキーンさんはその著書の「明治天皇」(新潮文庫)の中で「予定されていた課業がすべて終わらぬ内に、天皇の退出の刻限が来た。退出の際、生徒たちは英語で頌歌を唱えた。天皇は生徒一人一人に金5円を与えた。ウェブスター中辞典を買う代金としてだった。しかし天皇は、極端に西洋を重視する傾向を喜ばなかった。それは、生徒たちの演説の主題の選び方にも表れていた。
 (中略)日本人である生徒が、日本の伝統に無知なままハンニバルやアンドリュー・ジャクソンについて器用に英語で演説するのを聞き、天皇は明らかに不機嫌になっていた。」としているが、明治九年の東北巡幸に日程を見ると、7月14日に小湊より青森に移動し、午後1時半ころに在所の蓮心寺に着き、翌日の15日は朝6時から青森第五連隊で体操、行進などをみて、青森小学校に向かい、午後十時ころから小学生による体操、授業参観、そして東奥義塾の英語学生十名の課業をご覧になった。暑さが厳しく八十八度(摂氏31)の高温であったという。その後、12時前に蓮心寺に戻り、昼食後の午後1時から青森県庁、裁判所を訪れ、さらに伊東善五郎自宅前に作られた馬場で競馬を見学した。次の日の明治九年716日の午前6時ころに青森市濱町の桟橋から小舟で明治丸に乗り移られ、函館に向かわれた。かなりタイトなスケジュールで、若い明治天皇にしても相当に疲れ、不機嫌な態度となったのだろう。実際に珍田にしても英語学生の多くは、きちんとした漢学、士道の基礎を学んでおり、決して日本の伝統に無知だったわけではない。

 さらに前回のブログでも紹介した今官一著「津軽ぶし」には著者が東奥義塾在校時に聞いた話として
「東奥義塾には、明治天皇東北御巡幸のみぎりに、これを迎えて、英語の歓迎歌を捧げ、天皇をいたく感動させ、御褒美をいただいたという先輩が、まだ数人生き残っていて、年々の開校記念日には必ず顔をみせて、後輩の私たちに、その歌をうたって聞かせた。そうして、もう私たちには、いつも耳なれてしまった、当時のエピソードを、年々愚痴のように繰返して聞かせた。天皇は、かかる本州の北端の雪国に、外国の言葉で歓迎した少年たちの居ることに感激され、少年たちを御前にお召しになられた上で、一人一人に、なんでも好きなものを褒美に取らそうと、仰せられたという話である。「その方は、なにが好きか」と問われて、「はい、私は凧のブンブが好きであります。」と一人の少年が答えた。凧のブンブをいうのは少年たちが、凧の弦に張る「うなり」のことである。彼は、あの大空にぶうんとなるブンブの壮快なひびきを愛したのだ。天皇はブンブの意味が判らなかった。しかし側近の誰かには判るはずである。「ブンブだな。よしよしーー」と仰せられ「それで、そちは、なにが好きかね」と次の少年に下問された。すると次の少年は、直立不動の姿勢で、「はい----私は、豆漬けが好きであります」といった。これは、工藤儀助先生という青森県教育界の長老の直話である。儀助先生は東奥義塾では理事をして居られたので、私達は、在学中、一日として先生のことを「豆漬け」先生とお呼びしない日はなかった。天皇の前をはばからず、断固として津軽少年の嗜好を、公言された勇気に、少年たちは感動したのである」

 ここでの豆漬とは、枝豆をサヤごと、さっとゆでて、そのまま塩漬けにしたもので、最初食った時は、普通の枝豆で食べれば思ったほど、柔らかくて気持ちの悪いしろものである。このエピソードは、かなり眉唾もので、天皇自らが、子供達に声をかけることはあり得ないし、上記のスケジュールからも時間的な余裕はなかったろう。おそらく天皇に一緒に来た供奉官の誰かから声を掛けられたのだろう。それでも少年達にとっては、この天覧授業は一生の誉れ高い思い出であったことであろう。


 10人の少年達のうち、珍田捨巳は後に昭和天皇の侍従長に、佐藤愛麿は外務省を退任すると宮内省に入り、宮家別当、宮中顧問官を勤めたが、不思議な縁である。

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