2016年2月11日木曜日

須藤かくの親族

須藤マヤと妹のジーン


 阿部ハナ、須藤カクについては、その後、あまり新知見はなく、このブログで取り上げるのも久々である。

 阿部、須藤は1898年に横浜の婦人慈善病院でケルシー女史と一緒に働くが、その後、母体であるアメリカのWUMからの援助の削減、日本人医師との対立から、失意のまま、1902年にケルシー女史の故郷である、ニューヨーク州、カムデンという所の農場に帰ります。女性だけなので、農業経営のために日本から須藤の妹一家である成田家を呼び寄せます。

 最初に成田八十吉と長女マヤ、長男コウイチ、次女ジン、三女レンが渡米し、シアトルに着きます。その後、第二段として須藤の妹で成田八十吉に嫁いだマヤが渡米するが、シアトル港で眼病、トラコーマがあることがわかり、そのまま強制的に帰国させられます。数年後、マヤは日本で亡くなると、末妹のスエが渡米して、兄弟と一緒にカムデンで暮らすことになる。

 以前のブログで三女のスエについて述べたが、今回、長女のマヤと次女のレンについての話が載っていたので紹介したい。Pine Mountain Settlement School Collections https://pinemountainsettlement.net/?page_id=14091)

 Pine Mountain Settementという古いセトルメントで、そこで勤務していたのがMaya Sudoである。マヤは1921年にPine Mountainにやって来て、学校の看護婦として働いた。診療所に所属していたが、学校の先生、工場の職人としても働いた。どういう理由でPine Mountainに来たかは不明であるが、幼い頃に日本から渡米した6人の兄弟(一人は子供の頃に、天然痘で亡くなくなった)の一人であった。彼女の姪のFrances Ogasawara(妹Ren Narita Ogasawaraの娘 1896年4月生まれ)の情報から少しわかる。Mayaの写真はPine Mountainで借りてデジタル化しているが、Mayaはフィラデルフィアで通常の胆のうの手術で若くして亡くなった。Maya Pine Mountainを去り、1924年にフィラデルフィアのジェファーソン病院で働くことになっていたが、その前に胆嚢手術で亡くなった。日本で英語教育を受けたMaya ら5人の兄弟は渡米し、最初にワシントン州のシアトルに上陸した。すぐにケルシー女史が所有するニューヨーク州、Westdaleの農場にやってきた。母親はシアトルでトラコーマと診断され、伝染性があるため入国を拒絶され、そのまま日本に帰国させられたが、二度と子供達にあうことは出来なかった。Mayaはケルシーの家にいながらニューヨーク州の学力検定試験(Regent’exam)の合格した。Mayaの兄弟は全米に散らばり、一番上の兄、Kaichiはミシガンのデトロイト近くに住み、一番下の妹、Suye Narita Gambinoはニューヨークに住み、グラント大統領が亡くなった山小屋の管理人となった(Frances OgasawaraMayaの姪で、Ren Narita Ogasawaraの娘はニューヨークに行き、一時、Suya Narita と一緒にグラントコテージに住んだ)。Jean NaritaMayaの妹だが、Gengoro Yoshidaと結婚し、フロリダのPalm Beach州のBoca Ration近くのヤマトコロニーで農業に従事した。そして伯母で内科医の須藤カクと一緒に住んだ。

 Jeanと彼女の夫は他の日本人移民と一緒に農業コミューンとして有名なヤマトコロニーで住んだ。このユニークな農業コロニーの生活については、フロリダのDeray BeachにあるMorikami Museumに記録されている。ここにある記録にもMayaの親類のことが書かれている。

 Mayaは短い生涯であったが、友人にKoto Yamadaがいた。Koto1916年にVassar女子大学を卒業し、帰国して津田塾大学で英語を教え、1926年に再び渡米して、ニューヨークのコロンビア大学の卒後教育に参加した。その後は、日本人女性の権利について活躍した(哲学者の西田幾太郎の後妻)。

 Maya Sudoの姪のFrances OgasawaraWellesley大学とYale大学を卒業後、Health Consultantとして活躍し、National Tuberculosis Association(国立結核協会),TB Eradication ProjectあるいはAmerican Lung Association(アメリカ肺学会)などに従事した。

 これからわかるのは、成田八十吉?の子供は5人いて、上から長女マヤ、長男カイチ(ケンイチ)、次女ジーン、三女レン、そして四女がスエで、マヤは独身のまま早く亡くなり、カイチはデトロイトに、ジーンは吉田源五郎と一緒になりフロリダのヤマトコロニーに須藤カクと住んだ。レンはテッド小笠原と結婚してサンフランシスコに住んだ。そして四女スエはGambinoと結婚した。このうち長女マヤのみが母親の旧姓の須藤の姓を使っていたことから、子供のいなかった須藤カクの養女になった可能性がある。吉田源五郎(1885-1978)1907年の渡米し、1922年に成田カツ(1894-1967)とWestdaleで結婚した。成田カツは名をアメリカ風にJeanにし、源五郎もGeorgeに変え、1953年にアメリカ市民権を得た。子供が二人いて、長男Kenjiro442部隊に参加してイタリア戦線で戦死、Kenjiro1945年に空軍に入隊し、技術軍曹で生涯を全うした。

* 須藤カクの妹マヤの嫁いだYasokichi Narita(1865-1946)については、成田八十吉としたが、明治二年弘前絵図には”成田八十橘”という人物が徳田町に認められる。名前はYasokichiと読めるが同一人物か不明である。

0 件のコメント: