2016年2月26日金曜日

小児歯科入局




 大学の最終学年(6年生)になると、卒業後、どうするか決めなくてはいけない。当時の歯学部では、開業医に勤務することは珍しく、90%は大学に残った。どこに残ろうかと考えていたが、臨床実習の早い時期、6月ころから小児歯科の先生から是非ともうちの医局に来るように誘われた。特に子供が好きだった訳ではなかったが、この時代、子供の虫歯の洪水で、歯科医に行ってもなかなか治してもらえないといったことがマスコミで取り上げられていた。また5年生のころの基礎実習で生化学に残ったこともあり、小児歯科で齲蝕について研究するのもいいかと考えた。結局、生化で勉強した6人の学生のうち3名が小児歯科に残った。

 実は小児歯科はあまり人気がなく、女子が多かったため、この学生実習を最後に辞めて沖縄で開業する男の先生が一生懸命リクルートしたのである。前年は入局者がいなかったせいで、我々の学年の3名(男2名、女1名)は、ずいぶん期待され、当時の教授からも一切の臨床教育はじかにみてもらった。

 今と違い入局した昭和57年ころは、小児の虫歯が多かった時代で、近くの歯医者に行ってもみてくれないといった患児が、いっぱい大学病院に来た。簡単な症例は少なく。ほとんどの歯が虫歯で、抜歯、抜髄、乳歯冠が多く、さらにクラウンループやディスタルシューなどの保隙装置のケースも多かった。ほとんどの患者は泣き騒いで素直に治療させてくれない、いわゆる非協力児だったので、レストレーナーを使っての治療が多かった。診療室に入室すると、レストレーナーという強制的に子供をしばりつけるもので包み、むりやり口を空ける開咬器を入れ、麻酔をしてから、ラバーダムをつける。生活歯髄切断や抜髄の場合は、乳歯冠で治療し、隣接面に齲蝕がかかっているII級の場合はすべてインレーで治療したので、その技工に時間がかかった。多い時にはインレーや乳歯冠が週で数個ずつあった。特に乳歯のインレーは深く削ることができないので、できるだけ垂直でシャプーな形成を目指したため、今でも形成は好きである。

 治療はほとんど教授あるいは講師にチェックしてもらっていたが、2年目になると少し余裕ができ、同期生はすべて生化学に残っていたので、そうした関係の研究に参加することになった。当時、小児歯科では東北大学工学部で開発した超小型のPH電極を用いた研究をしていた。口の中に大臼歯バンドをして、そのバンドに小さい歯と小型の電極を埋め込んだ装置を入れた。リード線も折りたたみ内蔵した。測定の場合、そのリード線を取り出し、アンプにつけてプリントアウトするようにした。蔗糖の溶液を口の中にピペットで流し、PHの変化を調べた。ステファンカーブと呼ばれるカーブがでるが、これが人により違う。こうした個人差を検討する研究であった。唾液の緩衝能力の個人差が関係しているようだった。

 3年目からは合同診療室というところに小児歯科から派遣された。ここは唇顎口蓋裂の齲蝕、矯正治療、言語治療を行うところで、小児歯科もチームの一員として参加したが、私は唇顎口蓋裂の矯正治療を勉強するために行くことにした。毎日ではなく、週に何回かの午前中であったが、診療科長からは何でもさせてもらい、勉強になった。さらにもっと矯正を勉強したく、科長に相談したところ、鹿児島大学の矯正科、伊藤先生に連絡してもらい、そちらでお世話になることになった。


 この時期になると1歳半や3歳児歯科健診を見ることになるが、本当に子供達の虫歯は減った。最近、クラウンループやディスタルーシュといった保隙装置が保険に認められるようになったが、昔と違い、そうした装置を使う症例は、ほとんだないだろう。全く様変わりした。

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