2016年3月10日木曜日

板柳のルイ一族


 青森にはとんでもないホラ話がある。有名なものとして、青森県三戸郡新郷村のキリストの墓があるが、こうした荒唐無稽な話が、おもしろがって騒ぐ人がいるために何時の間にか本当になってしまうことがある。板柳町に伝わるおもしろいホラ話を知ったので紹介する。出典:板柳町誌(1977

中野松山家の家系

 松山栄久(故人)は東奥義塾再興の二回生として入学し、途中、鳥取県の畜産学校に学び、卒業後は防疫獣医となった。その後、青森師範学校で教鞭をとり、中野村に帰ってからは先祖伝来の果樹園を経営した。松山家の伝説によれば、ヨーロッパの百年戦争の末期、フランスの王族ルイ家が没落し、その一族が東洋に亡命して日本に渡り、その子孫が津軽に住みついた。日本に亡命したのは種子島の火縄銃が伝わる五年前とされ、天文五年(1538年)ころとなる。松山一家だけでなく、五十人ばかりの集団でここに(注:板柳中野)移って来た。そして隣村沖村を開墾した。沖からきた人々というので沖村と名がつけられた。その後、英国人が訪ねてきてここで病没し、松山家の屋敷内に葬った。古くから山羊を飼い、その乳を飲み、肉を食っていたため、山羊食いのあだ名があった。
 昔から松山家では、女の子が生まれるとエリ、ミル、リセ、レス、ミレなどフランス語にあやかった名をつけた。これは女系に傑物が出ると信じられ、先祖にジャンヌダルクが出てフランスの危機を救ったという伝説からきている。 松山栄久の娘は、エリ、レス、レミという名がつき、伯母はミル、ミエ、スナ、リセという名である。
 松山家の遺物として、青銅製の唐獅子香炉(日本製)があり、その唐獅子の後肢の膝にフランスルイ王家の紋章のユリが彫られている。また鶴亀の燭台があるが、亀の頭頂部分に十字が王子横背に刻まれている。古くから同家では剥製の技が伝えられ、人魚、小人、その他いろいろの剥製を作った。人魚は産褥で死んだ婦人の死体を買ってきて、上半身を剥製にし、大鯉の下半身と縫合して鱗を漆ではりつけた。小人は死人の骨を抜いて乾かすと縮まり小人になる。これを昔、海外に持ち出し、ひそかに売った。日本で動物剥製が始まったのは明治以降であるから早い。
終戦後に、中野、沖松山一族がルイ一族亡命の遺跡を守る会を組織し、また元県会議員が中心になって後援会ができた。



 「板柳町誌」には、他にも津軽弁とフランス語の共通点を対比し、板柳の松山家はフランスのルイ一族の末裔としているが、明治前の女子の名前はわからず、伯母のミル、リセはフランスぽいが、ミエ、スナはいかにも日本人ぽい。さらに遺物とされるものも古いフランス製ではなく、日本製であることなど、証拠はかなりあやしい。

 ただ江戸時代初期に大阪、京都の71名の切支丹信徒が津軽に流されるが、その居住地として弘前市近郊の鬼沢村、外が浜、十三湖、平川とともに板柳も挙げられている。こうした津軽の居住地には、数名の外国人宣教師が危険を顧みずに信徒を訪ね、励ました。これら外国人宣教師、スペイン人、ポルトガル人がいつのまにか、フランス人と変わり、その古い伝来が松山家に伝わったのかもしれない。名前についても、儒学者の兼松石居は幕末にアメリカのペリー提督にちなんで次女にリカ(アメリカのリカ)と名付けているように西洋風の名をつけることは明治以降では必ずしもないわけではない。

 津軽に最初に来たフランス人は、明治7年に開設された弘前カトリック教会に、派遣されたフランス人宣教師A・アリヴエであろう。1年ほど弘前を去り、その後、明治15年にはフランス人宣教師ウルバン・フォリーが弘前に来て、農事に詳しいことから県内のリンゴ栽培に貢献した。板柳の松山家も果樹栽培を通じてこのフランス人宣教師と知り合い、フランスの歴史を知り、感化されたのかもしれない。戦国時代にフランス人が大量に津軽に住みつくことは絶対にありえない。40年前の話で、今はこうした伝説も聞かない。

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