2016年6月18日土曜日

青森県最初の東京大学卒業生 松野貞一郎

松野貞一郎
「中央大学百年史 編集ニュース 36」より


松野茂左衛門宅
追手門広場隣となる

 先日、弘前市立図書館を訪ねた時に、「中央大学百年史 編集ニュース」(2002,36号)という小冊を見つけ、「調査報告 創立期講師・幹事松野貞一郎関係資料調査について」(担当者:松崎彰、角田茂)という論文が目に留まった。

 松野貞一郎(1857-1893、安政四年—明治二十六年)は、37歳、これから活躍という年齢で亡くなったので、あまり知られていない。東京大学卒業後は法律の専門家として中央大学、専修大学などで法律を教え、多くの著書もあるが、ここでは東京大学卒業前の履歴について、同論文および私が検索した他の資料を中心にまとめてみたい。

1.      父 松野幹次郎(栄蔵、茂左衛門、幹)
 松野家は松野茂右衛門を初代とする。松野茂右衛門は、貞享三年(1686弘前藩四代藩主、信政の時に召し抱えられ、寄合並、翌年には300石の御側役、元禄七年(1694)から隠居する宝永二年(1705)まで用人(家老に次ぐ職)であった。貞一郎の父、七代、松野幹次郎(栄蔵、幹)は弘前藩の馬術師範で、大道寺繁禎とともに明治12年に弘前第五十九国立銀行を創立。大道寺頭取のもとで取締役兼支配人(初代)を勤めた。明治二年弘前絵図によれば、その住まいは元大工町小路と上白銀町の四つ角にあり、隣は弘前で最初に写真館を開いた田井猛重の家があった。現在の青森地方裁判所弘前支部の道を挟んだ隣で、弘前図書館などがある追手門広場の隣に位置する。「弘藩明治一統雑誌士族卒族各員録」では八十俵の欄に長野、太田村の知行地として記載されていて、350俵の筆頭家老、杉山龍江から73番目に当たり、格式からすれば中上の士族と考えてよい。松野栄蔵から安政五年に幹次郎に改名し、江戸詰めの御小姓頭から、弘前に帰り、大寄合御旗奉行格になった。「由緒書」によれば、七代松野幹次郎(栄蔵) 天保十二年御日見、慶応元年江戸足軽頭となっている。さらに山田喜之助の「松野貞一郎君伝」によれば「唯碩佐藤一齋先生は君の外戚方の曾祖父たるを顕彰すれば足りなむ」となっており、松野幹次郎の妻は、著名な儒学者、佐藤一齋(1772-1859)の孫であることがわかる。昌平校に通っていて佐藤一齋の門下生である弘前藩の儒学者、兼松石居の仲介があったかもしれない。佐藤一齋の娘、松の次女、燕が松野幹次郎に嫁いだ。あるいは燕は佐藤一齋の次女ともいう。詳細ははっきりしないが、大儒学者の佐藤一齋に繋がる家系である。

 「弘藩明治一統誌 人名録 」(内藤官八郎著)には馬術芸の部に松野茂左衛門のことが書かれている。内藤官八郎の著は、実に読みにくく、間違いがあるとは思うが引用する。

「鞍馬流 下白銀丁小路 松野茂左衛門
氏は安政の度、江戸屋敷定府たりしも藩命を報して万延二年弘前の籍に入り、栄蔵と称す。時勢の変遷、外夷着岸後、防御の急務、馬術の今日、旧習の乗責は非常の用に供せず.軍備等は素より馬を以て最一と称す。全国法?で長具乗りに改正せり。松野氏藩主公の近習たり。かって報して馬庭を家宅に築き、一途長具の乗責と成る。藩士を称賛して業を師範し三馬屋共此法に?し、遠足の兵を成し、惜しいかな永年の業を見ず、置県に際す廃業す」

 さらに「弘藩明治一統誌 勤仕録」では廃藩置県前の石高として「二百石 下白銀丁 松野茂左衛門」の記載がある。弘前藩では高禄の部類に入る。

2.      松野貞一郎(安政4年ー明治26年、 1857-1893)
 松野貞一郎の履歴は、弘前藩の藩校から東京帝国大学に進んだ植物学者の岩川友太郎に似ているので、「日本貝類学の開拓者 岩川友太郎伝」(船水清著、岩川友太郎伝刊行会、1983)を調べると、松野について少し記述があるので、主としてこの本から引用する。

 松野貞一郎は安政四年十二月七日(1857)に弘前藩江戸藩邸で生まれた。弘前藩第十二代藩主、津軽承昭は藩の近代化のためには有為の人材に西洋の新しい知識と吸収させようと、慶応義塾など全国に若者を派遣するとともに、明治二年に藩校である稽古館に新たに英学寮を開き、弘前城東門前の津軽延尉宅を教室に当てた(直紀様の塾)。岩川の記憶によれば、生徒として、田中小源太、工藤善次郎、吉崎源吾、桜田道春、桜田俊作、山本又作(有成)、八木橋友太郎(則正)、出町大助、青山伴蔵、工藤勇作、武田虎彦、寺田実、須藤保次郎、成田英一、成田猛、小笠原拓一などがいた。ところが、この英学寮は明治三年十二月ころに閉鎖され、翌四年一月に青森の蓮心寺に新たに開かれ、ここでは慶応義塾から派遣された永島貞次郎と吉川泰次郎が教えた。一方、弘前には最勝院に漢学寮、敬応書院ができ、ここでは静岡藩学校から招いた宮崎立元が漢学を、島田徳太郎が英学を教えた。青森の英学寮の生徒の中に、岩川とともに、松野貞一郎の名が見える。岩川の記憶によれば、青森英学寮の生徒には、工藤善次郎、石郷岡良蔵、藤林礼弥、松野貞一郎、三上善衛門、青沼歓之助、成田伝之丞、山本又作、笹森銀弥、須藤保次郎、田中永太郎、成田其三郎、助川東馬、田中五郎、須藤以次郎、佐田吉之丞、成田良司、長尾松太郎となっている。松野貞一郎は13歳で入寮したことになる。ここでは永島、吉川先生から慶応義塾に沿った授業が行われた。ところがこの学校も廃藩置県に伴い明治四年七月に閉鎖された。わずか7か月の生命であった。この状況を憂い、菊池九郎は明治五年11月に東奥義塾を開校した。20歳になった岩川友太郎は開学した東奥義塾の英学部二等教授となったが、松野貞一郎はそのまま学生として英語の勉強に励んだ。最初の外国人英語教師のウォルフは明治七年元旦に帰国することになったが、婦人が船嫌いだったため、弘前から東京へは数名の学生、教師が随行することになった。随行者は菊池九郎、工藤祐雄、佐藤瓦、江南哲夫、田中金太郎、松野貞一郎、三浦慶蔵などがいた。どうせ東京に行くのであれば、東京の学校に行こうと、岩川は官費で入れる学校を探したところ、東京外国語学校という学校があるので、東京に着くと、松野貞一郎、田中永太郎とともに編入試験を受験した。結果は一級から五級というふうにふるい分けられたが、岩川、松野は四級、田中は五級という情けない結果であった.同校はその後、大学予備門と改称され、同級生には、加藤高明、嘉納治五郎(伸之助)、田中稲城、坪井九馬三、野村龍太郎、辰巳小次郎、末岡精一、末松謙澄などがいた。田中永太郎は軍人の道に行くことにしたが、松野と岩川は一緒にこの東京外国語学校で懸命に学んだ。そのかいもあって、明治八年九月に岩川と松野は東京開成学校に入学する。明治十年には東京大学と改称され、法学部、理学部、文学部の三学部となり、明治十四年の最初の卒業生がでた。卒業生35名の内、法学部の卒業生は次のようになる。

法学部:加藤高明、秋山正議、岡田源太郎、合川正道、松野貞一郎、坂口佐吉、鈴木充美、由布武三郎


 おそらく席順であろうが、後に総理大臣となる加藤が首席で、松野も英才ぞろいの中、5位は優秀である。他の学士も日本の法曹界の基礎を作った蒼々たるメンバーである。ちなみに文学部には講道館創始者の嘉納治五郎がいる。松野と友太郎は同郷同窓で、青森英学寮以来、東奥義塾、東京外国語学校の編入試験をともに受け、東京大学の第一回卒業生でもある。松野は卒業後、司法官、大審院判事を進み、同士とともに東京法学院を創立して、その講師となった。東京大学法学部時代は、加藤高明は同じ寄宿舎で加藤は義大夫や端唄が得意で、松野は講釈が上手だったので、就寝前に舎生が集まって二人の余興を楽しんだという。





  3. 松野松太郎(長男 明治14年−45年、1881-1912)

 貞一郎の長男、松太郎は明治十四年二月三日に東京飯田橋で生まれた。富士見小学校卒業の前年に父親に死なれ、高橋健三(ジャーナリスト、弘前出身の陸羯南の友人)を師父として日本中学校から第一高等学校に進んだ。第一高等学校時代は、東寮委員として”嗚呼玉杯に花受けて”の東寮寮歌とも関わった。明治三十六年に東京帝国大学英法科に入学し、明治四十年七月に卒業すると、日本郵船会社ロンドン支店に勤務した。将来を嘱望されていたが、明治四十五年に彼も父親と同じように31歳という若さで亡くなった。

2 件のコメント:

津軽に育つ さんのコメント...

広瀬先生、ありがとうございます。いつもながら精緻な記載に驚かされます。これからも、楽しみにしております。

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントありがとうございます。実は以前、コメントいただた松野武雄さんの子孫の方が先日、弘前に来られました。碁盤について探しており、”津軽で育つ”様に連絡したいと言われました。できましたら、下記アドレス宛にメールいただければ、幸いです。子孫の方はきちんとした方です。もし差し支えなければ、ご連絡ください。
  hiroseorth@yahoo.co.jp