2016年7月6日水曜日

青森県で最初に英語教育をうけた女性: 須藤かく

右の須藤かくはシンシナティー女子医科大入学時は32歳、卒業は35歳、横浜で医療活動をするのは37歳

 須藤かくと阿部はなの生年月日ははっきりしない。昨年出版した“津軽人物グラフティー”を読み直してみると、どうやら須藤、阿部の生年月日が間違っているようなので、修正したい。

 1910年のアメリカのSensus (国勢調査)では須藤かくは41歳、阿部はなは37歳となっている。これを参考にすれば、須藤は1869年、阿部は1873年生まれとなる。さらに1930年のSensusよれば、阿部は亡くなっているので須藤のみ記載されているが、58歳となっている。これでは1872年生まれとなる。Utica NY Saturday Globe1911年号には阿部ハナの死亡記事が載っており、それによれば阿部ハナは39歳で亡くなったとしている。1872年生まれとなる。一方、フロリダにある須藤かくの墓碑には1861-1963年となっており、生年月日は1861年となる。ここまでアメリカの資料によれば、須藤かくは、1861年、1869年、1972年生まれ、阿部はなは1872年、1873年生まれとなる。

 日本側に資料では、まず海外渡航の際に提出した外国旅券下付表では明治291月時点で27.2歳、阿部はなは24.2歳となっている、すなわち須藤は1868年、阿部は1871年生まれとなる。明治42年の日本杏林要覧によれば、阿部はなは明治31年3月の医籍登録をして生まれ年は慶応二年、須藤かくは同じく明治313月の医籍登録、生まれ年は文久元年となっている、慶応二年は1866年、文久元年は1861年となる。また笹森順造の「アメリカで活躍した県人の素描」によれば、須藤かくの説明によれば文久二年(1862年)弘前生まれで、13歳のときに父に伴われ青森に移ったが、ほどなく家族とともに東京に転居したとある。

 これらのことから須藤かくの生まれについては、1861年、1862年、1868年、1869年、1871年、阿部はなについては1866年、1872年、1873年となる。須藤かくについては、昭和8年の横浜共立学園六十年史にある一期生の証言から明治5年(1872)に共立女学校に入学したことがわかっており、上記の説によれば11124、3歳で入学したことになるが、いくらなんでも3、4歳での入学はありえないので、アメリカのSensusの報告はかなり歳を若くごまして報告していることがわかる。アメリカ入国や医科大学入学には若く申請した方が都合が良かったのかもしれない。一方、Cincinnati Enquirer  Mar 3, 1895によれば須藤かくは10歳の時に故郷青森から東京に行き、女子では学校で勉強できないと失望していたところに横浜にアメリカ人が経営する学校ができると聞いて入学するというインタビュー記事がある。医籍登録は、かなり厳しい登録で嘘はないと思われ、10歳ころに上京したとのインタビューにも一致するので、須藤かくの生まれは1861年(文久元年)と考えてもよかろう。また阿部はなについても1866年(慶応二年)とするのが妥当と思われる。すわわち阿部はなは1866年に生まれ、1911年に亡くなり、須藤か1861年に生まれ1963年に亡くなったことになる。阿部は50歳で、須藤は102歳で亡くなったことになる。

 前述した須藤のインタビュー記事によれば、兄が東京の学校に行くのに合わせて自分も連れていってくれ、東京の学校に入りたいといったようで、須藤が横浜の共立女学校に入ったということは、兄も同様に東京の学校に行ったと思われる。明治4年のことと思われる。明治4年に慶応義塾に入塾した青森県人の中に「須藤保次郎 明治四年五月二日 十八歳」の記載がある、明治四年は1871年では須藤かくは10歳なので、この保次郎は兄である可能性がある。明治四年に状況した須藤保次郎は慶応義塾に、妹のかくはしばらく女子が入れる学校を探していたが、明治五年に共立女学校の開校を知り、そこに入学したのであろう。

 「須藤勝五郎の生涯(佐藤幸一)によれば、須藤かくは明治八年に開設された東奥義塾の女子部に入学し、明治九年に横浜共立女学校へ、そして明治十年十月に横浜海岸教会にてバラから受洗したことになっているが、明治五年に共立女学校に入学したなら、東奥義塾の女子部はまだできておらず、父親の須藤序は明治七年に青森市の都市計画事業に活躍していたことから、兄とかくが先に上京し、明治11年以降に父親も上京したことがわかる。我が国で最初にできた小学校は明治六年(1873年)、最初の女子のための教育機関である官立東京路学校(お茶の水)ができたのは明治412月、横浜のフェリス女学校ができたのは明治3年ということを考えると、わずが10歳の少女が全国に女子の教育機関がほとんどないない明治四年に上京したことは驚くべきことである。前述した笹森の文に「向学心の盛んな女史(須藤かく)は学校にはいりたいと思っても東京に女子の学校がなかったので、男装して中学に入学したが、それがある所で、性別がばれて退校させられた。それから横浜にあるアメリカのミッションスクールに入り、ケルシー女宣教師について普通学のほかに医学を学んだ。」との記載があるが、あながち間違いではない。明治四年といえば、男子でも大学南校、慶応義塾くらいしか学校のなかった時代であり、さすがに大学南校に10歳の女子がいくら男装とはいえ、入学は難しく、兄と同じ慶応義塾あるいは攻玉社あたりにもぐりこんだのかもしれない。恐れ入る。

 兄と思われる須藤保次郎の名は、前回の松野貞一郎の項で、岩川友太郎の伝によれば明治二年の弘前藩校の稽古館英学寮の生徒の中に須藤保次郎の名が見え、さらに青森の英学寮の生徒の中にも須藤の名がある。廃藩置県に伴い明治四年七月に閉鎖されたが、その前に須藤保次郎は上京して慶応義塾に入ったのだろう。兄の英語教育を間近に見た須藤かくは、どうしても兄同様に英語を学びたいと熱望して、一緒に上京した。兄が慶応義塾にいたことから、福澤諭吉の娘三人が新しくできる横浜共立女学校に入ることを知り、明治五年に共立女学校に入ったと推測する。女子では青森県で最初に英語教育を受けた人物と考えてよい。

0 件のコメント: