2017年1月1日日曜日

メアリー・リンドの弘前旅行記 明治27年

リンドの写真、明治27年、白土塀が写っている

上と同じ写真であるが、説明が間違っている

リンドの写真、明治27年。城から弘前消防署方向

マックレーの銅板画、明治7年。弘前消防署から城方向


 明治時代の外国人が写した弘前の写真は少ない。そのひとつにメアリー・リンドの世界周遊記がある。1897年に出版された“In Journeyings Oft A Sketchi of the Life and Travels of Mary C. Nind”という本で、今でも復刻版が売っているし、インターネットでも334ページのその全文が読める。

 通常、明治の旅行記と言えば、京都、大阪、東京がメインとなるが、この旅行記にはそれに加えて弘前での滞在記が載っている。弘前には明治27年(1894)の夏に訪れ、当時、弘前女学院の教師をしていたジョージアナ・ボーカスの案内を受けている。詳しくは、「ジャーナリストとしてのジョージアナ・ボーカス 米国メソジスト監督派教会女性宣教医—」(齋藤元子)を参照されたい。

 他に有名な外国人による滞在記として、1878年に弘前を訪れたイザベラ・バードの“Unbeaten Tracks in Japan(1880)があるが、齋藤は両者の旅行記にちがいとして 、写真技術の発達を挙げている。確かにイザベラ・バードの旅行記には写真はなく、銅板画であったが、リンドの明治30年(1897)の旅行記になると写真が多くなっている。弘前でも弘前城、塩分町の二階建て洋館、岩木山、岩木川の4枚の写真が添付されている。このうち、弘前城と二階建て洋館について、少し解説しよう。

 弘前城の本丸御殿は、明治17年に壊されたのははっきりしているが、天守閣に続く白土塀が壊された時期がはっきりしない。坂本弘蔵とされる明治10年から20年頃、撮影とされる天守閣写真には白土塀が写っていおり、また明治29年の石垣大修理の写真ではすでになくなっているので、この間に白土塀も壊されたことになる。「津軽ひろさきおべっか年表 弘前城築城400年記念」には、明治19年(1886)のところに白土塀が取り壊された写真があるが、この写真が正しいなら、明治17年から19年に本丸御殿が取り壊されて間をおかず、白土塀も壊されたことになる。ただ明治27年のニンドの弘前城と坂本弘蔵の写真は同じで、明治10年から20年とされる説明が間違っている。これを考えると明治19年とされる写真の推定時期も不確かな可能性が高い。普通に考えると明治29年の石垣大修復の際に邪魔になる白土塀を壊し、現在までそのままになっていると思われる。よく見るとリンドの写真に写っている土塀はかなり破損している。リンドが弘前にきた明治27年の写真には白土塀があり、明治29年の石垣大修理の写真には白土塀がないなら、修理の際に壊したと考えるが妥当である。これは重要な事実であり、現在、弘前城石垣の大修理が行われているが、白土塀も復活させる根拠となる。

 もうひとつは塩分町の二階建て洋館の写真である。明らかにこの洋館は、本町一丁目にあった佐々木元俊の家である。明治7年に東奥義塾の宣教師マックレーの著書にこの付近の銅板画がある。現在の弘前消防署のところから弘前城方向への写真である。二階建ての洋館に続き、長い平屋の長屋が続く。リンドの写真はこれを逆方向から撮った写真で、同じような長屋が右側に続く。細かく見ると道はぬかるんでいて歩きにくそうであるし、長屋は“こみせ”風の構造となり、真ん中当たりには玄関のようなものがある。また左側の家は一段高くなっており、短い階段がついている。左側は明治二年弘前絵図では“郡方ノ舎 弘前町会”とあり、明治四年では“今村九左衛門(大津屋)”となっており、明治27年では右側と同じような長屋のものが写っている。佐々木元俊の洋館は明治7年の付近の大火の後に堀江佐吉によって建てられたので、マックレーの銅板画は新築当時、リンドの写真はその20年後のものとなる。建物も多少は改築されているのであろう。

写真情報は貴重である。

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