2017年1月3日火曜日

戦後72年目を考える



 60歳の還暦を迎えることで、ちょっとうれしいのは、もはや自分も老人の一員になり、ある意味、老人が怖くなくなった。若い時分の老人と言えばすべて戦争経験者で、戦争経験のない若造がと言われれば返す言葉がなく、ただハイハイと聞くしかなかった。ところが戦後、70年以上たつと、実際に戦地に行って戦った人たちは、ほとんどはいなくなった。先日もコメンテーターが「私のように戦争を経験した世代からすれば」と平和の意義を滔々としゃべっていたが、後で調べるとこのコメンテーターは戦前生まれであるが、終戦時で6歳、何が戦争経験者と偉そうに言えるのか、笑った。

 わたしが生まれたのは、1956年、その72年前と言えば、1884年、明治17年。日露戦争が始まったのが、明治37年(1904)なので、当時の主戦闘員が20歳前後とすると、私が10歳ころにはまだまだ日露戦争の経験者がいたことになる(82歳)。大東亜戦争で言えば、私が10歳の時、主戦闘員は45歳で、社会の要職につく大人はほぼ戦争経験者であった。
 私の父も昭和172月に現役兵として入隊、その後、幹部候補生を経て、関東軍に配属され、昭和1812月に少尉となり、ソ連国境に配属された。終戦後に捕虜となり、モスクワ南のマルシャンスク捕虜収容所に昭和235月までいて、ようやく614日に舞鶴に到着した。捕虜生活も含めると、外地に63か月いたことになる。少尉任官から1年たつのでポツダム中尉に。さらに伯父さんは昭和初期に陸軍に入隊し、中国各地を転戦し、准尉で昭和1956月ころにインパールで戦死した。10年以上の叩き上げの軍人である。こうしたケースは、どの家でも当然で、別に話題にもしなかったし、戦友会では昔のことは色々としゃべったかもしれないが、家では戦争の話はしたことないし、他の人も大概はそうであった。

 こうしたこともあり、私らの世代は現実としての戦争のことは知らないし、靖国神社と言われても実感がないのが本音である。それ故、最近も稲田朋美防衛大臣が靖国神社を参拝に行ったが、本当にこの人は子供のころから靖国神社に参拝していたのか、どうも選挙用な偽善的な臭いがしてならない。ニュースになるということは前もって行くことをマスコミに知らせたからであり、行きたいならそんなことをせずに、だまって行けば誰にもわからないと思うのだが。

 韓国では若者が慰安婦問題で騒いでいるが、私の例で言えば、大学生ころに日露戦争の話をしているようなもので、この人たちは観念的な怒りで行動しているだけで、その頭には慰安婦そのものの具体的なイメージはない。大学生のころを思い出しても、日露戦争の兵士の怒りをわかるはずはない。実際に生存している慰安婦46名のうち、日韓合意支援事業による現金支給を受けたひとは34名、大部分の人は現実的な対応と妥協をしている。当事者が承諾していることを、周囲が反対するのは、歴史の観念化、政治化であり、もはや解決する事案ではなくなっている。


 過去は忘れるものではないが、過去を引きずり、観念的、政治的に対処するのはもっと悪い。オバマ大統領の広島訪問、安倍首相のパールハーバ訪問はそうした意味では正しい。とりわけ韓国の特異な性格を把握して、先に日本側の支援事業を終了して、韓国側に下駄を預けた政治手法はうまいやり方であった。

4 件のコメント:

フランツ さんのコメント...

広瀬先生
突然の書き込み失礼いたします。
小生の父は、海軍でしたが、調べてみると「ポツダム少尉」でした。父は、海軍技術科士官で、呉海軍工廠で終戦を迎えました。
実は、平成24年8月から、父の呉海軍工廠時代の足跡を調べて、一冊の本にしております。
題名は、「ポツダム少尉 68年ぶりのご挨拶 呉の奇蹟 第4版」と云います。
青森県は、青森県立に第2版、青森市立に第3版、八戸市には、第4版が登録されております。広瀬先生は、サッカーをされておられたようですが、サッカーファンなら必見の本でもあります。出来れば、第4版を御覧になって頂ければ幸いです。

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントいただき、ありがとうございます。
青森市に行く機会に是非、ご著書、拝見させていただきます。

NO さんのコメント...

広瀬先生
Google検索エンジンのおけげで、検索用語『マルシャンスク」で ”戦後72年目を考える” に出会うことができました.
コメントというほどのものではないのですが、マルシャンスク、鹿児島にかけてメモします.
 1.『マルシャンスク』:終戦時に関東軍軍医部(新京)の軍医中佐だった父(故人)はソ連に抑留、マルシャンスクの国際捕虜診療所の所長として主として日本人捕虜、ときにドイツ人捕虜やポーランド捕虜の診療に従事、昭和23年6月に舞鶴に帰還しました.お父上と同じ引き揚げ船での帰国だったはずです.小生は家族と終戦まで新京の白菊小学校に1年間通学、平壌、釜山経由で引揚第1号興安丸で終戦の翌9月2日に仙﨑港に上陸しました(関東軍や厚生省は軍人の家族の引揚を最優先したという戦後の社会的批判は当然です.個人としては幸運だったという他ありませんが).戦前のこと、戦後のこと、父を含めて家族で話題にすることはほとんどありませんでした.だが、小生だけは今年5月に、はじめて舞鶴の引揚記念館を訪ねる機会を持ちました.
 2.『鹿児島』:大学医学部に1978年に赴任、2002年の定年退職まで25年年間、大学病院の眼科を担当しました.赴任当時に歯学部の併設があり、口腔生理学の笠原先生らと親しくしていました.赴任してまもなく娘の歯列矯正で伊藤先生に、退職間際には小生自身の虫歯治療で杉原先生や泉先生にお世話になりました.
 近年の web を介したグローバル情報交換の発展をかみしめながら書いてみました.
 妄言多謝
      N. O., MD 2019-07-21 (京都洛北)

広瀬寿秀 さんのコメント...

三年ほど前に徳島県で学会があり、父の軍歴記録をもらいに行きました。それには入隊から捕虜、帰国までの詳しい記録が載っています。個人情報ですが、父は故人ですので、少し報告させてもらいます。東京歯科医専(現:東京歯科大学)卒業後、昭和17年2月1日に現役兵として入隊し、幹部候補生となり、昭和18年3月1日に少尉となっています。その後、北満を中心に勤務し、最終部隊は第148師団参謀部(師団長:末光元廣中将)で新京にいました。所属は満州第13111部隊?で、昭和20年8月5日に新京南嶺収容所に入り、11月12日にそこを出発して、12月15日にマルシャンスク収容所に入りました。当初は木材伐採、搬出、置場作業を、その後は歯科治療室勤務でした。ここで麻酔なしで多くの歯を抜いたので、開業も役に立ったと言っていました。昭和23年5月10日にマルシャンスク収容所を出て、6月3日にナホトカ収容所に到着。その後、6月11日に英彦丸にて乗船して、14日に舞鶴についています。
マルシャンスク収容所は、仰るようにドイツ兵も捕虜としていたので、シベリア収容所ほど過酷ではなかったようですが、多くの捕虜がなくなりましたし、比較的、捕虜期間は長かったようです。あまり情報もなく、ドイツでこの収容所のことが書かれた本があるようです。
私は東北大学歯学部小児歯科より1985年に鹿児島大学歯学部矯正歯科に移り、1994年までここにいましたので、先生とは桜ヶ丘で会ったかもしれません。こうしたネットでお話できるのも何かの縁でしょう。マルシャンスク捕虜収容所のこと何かわかれば、ブログで報告いたします。