2017年4月5日水曜日

阿部はなの出身地?



 阿部はなの実家について、ここ数年調べているが、全くわからない。当初は、須藤かくと同郷ではないかということで、津軽の“阿部姓を色々と調べてきたが、該当する人物がいない。そうなると”阿部“というありふれた名前だけに手がかりは全くなく、途方にくれていた。

 ひと月程前に、横浜プロテスタント史研究会報、2015.11.15, 57号に「女性宣教医Dr.アダリーンD.H.ケルシー」(安倍純子)の論文を見つけた。そこには「阿部はな 東京府出身、定右衛門の長女として生まれた。卒業は1886年、在学中のBallaghより受洗した」との記載があった。いきなり父親の名が出たのは驚いた。安倍先生とは面識も全くなく、どうしようかと随分悩んだが、聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥と思い直し、横浜共立学園を通じて安倍先生の連絡先を教えてもらい、昨日、連絡してみた。

 安倍先生に聞くと、阿部はなの父親の名がキリスト公会の受洗簿に載っていたとのことであった。私のような信者でない者はこうした記録があることは知らなかったし、阿部はなが受洗した横浜海岸教会には関東大震災、太平洋戦争で、昔の記録はなくなったと勝手に決めていた。お恥ずかしい次第である。

 阿部はなの本籍は、神奈川県という記載が多いが、ここでの本籍は単に居住地を示すだけのこともあるため、はっきりしない。そこで取りあえず、Googleで“阿部定右衛門”で検索するも、ヒットせず、さらにGoogle Bookで検索すると、二つの関連する本がヒットした。ひとつは「相模原市史 第6巻」に阿部定右衛門の名があるようだ。青森県の図書館には同書はないため、相模原市立図書館に問い合わせると、同書99ページに「明治五年相原村戸籍表 阿部定右衛門 53歳 家族の人数:男2名、女1名、計3名 石高315」との記載があるとのことであった。もう一つは「日本近世商業史の研究」(山口徹、1991)で、これは、アマゾンに600円くらいで売っていたので、すぐに注文した。そこには「明治六年奉公人放出者の石高 阿部定右衛門 石高 0.316石 奉公人:長男桉吉16)」となっている。ふたつの文献より、相模原、相原村に、明治五年当時、阿部定右衛門(53歳)、長男桉吉15歳)女の家族がおり、石高年間、0.315石という貧農で、同地域で盛んであった養蚕業に長男が奉公人として出ていたことがわかる。普通に考えれば、家族の“女”は定右衛門の妻と考えてもよかろうが、もしこの家族の“女”が阿部はなであれば、はなは1865年ころの生まれであるので、7歳ということになる。

 ここからは全くの推測であるが、母を幼くして亡くした阿部はなは兄同様に幼くして横浜に奉公にでる、あるいは相原村に伝道にきていた宣教師に見いだされかもしれない。例えば相原村からも近い八王子出身の小川義綏(おがわ よしやす、1831 - 1912年)という初期の横浜バンドの牧師は、出身の八王子周辺の伝道を明治の早い時期からしており、バラ夫妻や共立女学校のメアリー・ブラインとも親しく、十分に阿部はなを関係の深い横浜共立女学校に入学させことができる。

 阿部はなについては、米国婦人伝道協会から1881年に102ドル、1886年には58ドルの個人宛の寄付があったことがわかる。横浜共立女学校の生徒のうち、経済的に困っている生徒には校費生となった。さらにこうした生徒にはアメリカの支援者から個人宛、例えば阿部はな宛に寄付が寄せられた。貧農農家の出身であれば、当然こうした支援を受けたのだろう。また相原村、現在の相模原市相原は、小さな川を隔てて、町田市相原、東京都となっており、阿部はなが受洗した明治十年代、東京府、神奈川県といってもよく、「東京府出身、阿部定右衛門」となってもおかしくないし、「阿部はな:神奈川県 平民」との記載にも会う。

 NHKの朝ドラ、「花子のアン」の主人公は農家の生まれで、クリスチャンの父親の勧めで、東洋英和女学校に入学するが、同じように阿部はなも貧農の家に生まれ、そこから横浜共立女学校、アメリカの女子医学校に進学し、女医となり、アメリカのウェストカムデンという小さな村でなくなった。相模原市出身の最初の女医となろう。相原地区には阿部姓の家があるようで、子孫、縁者の記憶の中に“アメリカに行って女医になったひとがいた”という証言があれば、確定できるのだが。


2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

今回の記事を拝見させていただき、じわじわと静かな感動を覚えました。

いつもブログを見ているわけではありません。著書もまだ買っていませんが、多忙の中でこういうお仕事を残されていることに敬意を持っています。
藤崎町在住の気まぐれな貴ブログ読者ですが、一言お伝えしたかったのでコメントいたしました。

広瀬寿秀 さんのコメント...

阿部はなの父親は阿部定右衛紋というの確実で、東京府、神奈川県出身です。もし、相模原、相原村出身となると、色々な空想がでてきます。父、定右衛門(53歳)、兄、按吉(15歳)、そしてハナ(7歳)。母は早くに亡くなり、貧農で、暮らしに困り、近くの豪農の家に養蚕の仕事をしていたが、どうにも暮らしに困り、横浜に移る。そこでキリスト教に触れ、宣教師の手引きで、横浜共立女学校に入学。こうした妄想が出てきます。もう少し資料を調べますが、早い時期からアメリカの婦人伝道協会の個人寄付(個人名宛の寄付)を受けていたことから、決して経済的には恵まれていなかったと思います。またアメリカの新聞を読むと、武士の暮らし、日本の文化を紹介する場面では、須藤カクが答えていますが、農家の出身の阿部はなにすれば、そうした経験がない家庭で、答えることができなかったかもしれません。墓は第二の故郷であるニューヨーク州のウェストデールにありますが、日本にいる親戚すら、もはや誰も知りません。こうしてブログ、本で紹介でき、少しでも供養になればと思っています。