2017年5月3日水曜日

サインの想い出

以前手に入れた南雲忠一中将の書です。サイン?



1.      長嶋茂雄のサイン
 小学校4、5年生のころだったが、巨人の長嶋茂雄選手にファンレターを送ったことがある。住んでいた尼崎は今も圧倒的に阪神ファンが多いが、当時の子供達には巨人ファンも多かった。夜7時頃になるとテレビでプロ野球が放送されていて、巨人の試合はほぼ全試合放送されていた。サンテレビができるまで、地元とはいえ、阪神の試合は巨人戦以外、ほとんど放送されることはなく、熱心な阪神ファンは直接球場に行くか、ラジオを聞いて応援していた。子供にすれば、いつもテレビでみる巨人の方がより親しみがあり、ファンが多かった。 “オー()、カネダ(金田)、ヒロオカ(広岡)、ヨシタ(吉田)”という駄洒落もあったが、とりわけ巨人の中でも一番人気があったのは3番、サード長島だった。不思議なことに当時、昭和30年代は今と違い個人情報保護といった感覚はなく、少年雑誌のページの右欄の細い空間に、作者、例えば、手塚治の住所が平気で載っていた。ファンレターを直接、作家に送ったり、あるいは自宅を訪ねたりした。ある時、少年マガジンのコーナーに長島選手の住所が載っていた。ファンだったので、早速、ファンレターとオバQのハンカチを入れ、“サインお願いします”と書き、返書用の封筒にも切手を貼って、送った。すると驚くことに、後日、長島選手のサイン入りのハンカチが送られてきた。これには感激し、友人に自慢したものである。調子に載って、今度は王貞治選手にも同じように送ったが、返事はなく、それ以来、王選手は嫌いになった。単純なものである。その後、このサイン入りハンカチは私の机の中に大事に保管していたが、知らぬ間に母親が捨ててしまった。

2.      外人のサイン
 今では、考えられないが、昭和40年ころまで、外国人は非常に珍しく、中学一年生のころ、大阪万博に行った時に、会場内を歩いている外国人に片っ端からサインをもらったことがある。“サイン プリーズ”と言われた外人はさぞかしびっくりしたと思うが、大抵の外人は快くサインをしてもらった。その後、入学した学校には当たり前のように外国人の先生がいて、見慣れてしまい。万博でもらったサイン帳もどっかになくなってしまった。逆のことも経験した。大学二年生の時に中国、昆明市に行った時のことだ。初めて外国人に解放されたばかりの土地だったので(共産主義の中国では、外国人が旅行できる場所を制限していた)、町を歩いていると百名以上の昆明の市民に取り囲まれた。歩いているとぞろぞろと付いてきて、そのうち誰かがサインお願いしますといったジェスチャーでペンと紙を出す。まるでスターになったような気分で、私もバカなので平気でサインしたことがあった。これは気持ちがよかった。

3.      ペレのサイン
 中学生のころ、友人の大谷君の家に遊びに行った。お父さんは日本のサッカージャーナリストの草分けで、朝日新聞に勤めていた大谷四郎さんだった。大谷四郎さんは取材で海外の多くのサッカー選手に会い、またワールドカップなど大きな大会に何度も行っていた。“うちにペレのサインがある”と言われ、見せてもらったことがある。どこかの取材の際にもらったのだろう。とんねるずの憲武さんで有名なペレのサインである。今と違い、ペレの存在は、日本にサッカー小僧からすれば神のような存在で、おそらく当時、日本でペレのサインがあるのは、大谷くんの家以外はなかったろう。これには驚いたし、感動した。

4.      原節子さん、轟夕紀子さんのサイン
 これは親父が亡くなった後、形見分けのような形で、もらったものだ。以前にもブログで紹介したが、全く経緯はわからないが、戦前、軍隊に行く前に貰ったものである。原節子さんと轟夕紀子さんの顔は似ており、少しぽっちゃりした女性が好きだったのだろう。


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