2017年10月12日木曜日

十和田現代美術館


 ロータリークラブの地区大会が十和田市であったので、初めて十和田市を訪ねた。弘前から車で2時間、かなり遠い。前から、十和田現代美術館は是非とも見たい場所だったので、地区大会の途中を抜け出し、大会会場近くの美術館に行った。

 体験型の展示物を主体に各部屋に一個ずつの作品が置かれ、鑑賞される仕組みになっている。また屋外にも沢山の作品があり、季節の変化により楽しめる仕組みとなっていて、面白い。ただ内容がモダンアート中心であり、年配の私には少し難解で、あまり楽しめなかった。モダンアートは現代性を強く主張しているため、陳腐化、あるいは興奮と退屈の紙一重である。抽象画自体は嫌いではなく、日常空間、例えばリビングなどに小さな作品を置くことはインテリのひとつとして落ち着く。ただ作品として美術館に展示された場合、私の感覚が鈍いのか、今まで一度として感動したことはないし、作品そのものに引き込まれたこともない。唯一の経験としては、弘前で行われた奈良美智さんの“A to Z”の作品のひとつ、大海原に人形の形をした島が表現された大掛かりな作品があった。ここには月明かりに照らされた空想の国を実感できたし、松本市美術館にある草間彌生の鏡を使った作品は、作者の精神状況を一瞬垣間みることができ、ぎょっとした経験がある。

 一方、作品そのものに引き込まれたのは、圧倒的に具象作品多い。昭和48年に京都国立博物館で行われた富岡鉄斎の初めての大規模展覧会は忘れられない。この展覧会は鉄斎の代表作を集めたもので、その迫力と表現力の多様さにはうちのめされた。凄いの一言しかない。同様に、倉敷の大原美術館、上野西洋美術館も建物を美しさとともにその収蔵作品に感動を覚える。あるいは信州の穂高の碌山美術館の清々しい佇まいにもいやされる。神戸の白鶴美術館の落ち着いた雰囲気も所蔵作品とマッチしている。

 本来、大型の展示型の作品は、作者にとっても、ブロンズ像のような永久的なものを目指しているのではなく、一過性の、現代性のあるものを目指しており、ある程度すれば、壊してほしいものだ。つまり作者にとって、今の気持ちを作品を通じて表現したもので、イサム・ノグチのような作家は別として、例えば、ビデオを使った作品などは、何十年も展示するようなものではない。こうしたことから現代美術館とは、常にその時代を現した作品を展示する、あるいはアップデートするところであり、前衛的でなくてはいけない。理想的には数年で全作品を入れ替える必要があろう。

 以前のブログでは、弘前現代美術館(仮称)は、体験型の作品を中心とすべきと書いたが、十和田現代美術館を見る限り、体験型のみの展示あるいは、現代アートのみの展示は、どうも厭きられ、リピーターを増やせない。むしろ過去にレンガ倉庫で開催された3回の奈良美智さんの“A to Z”を含む展覧会を参考に、毎年、更新するくらいの常に変化する美術館を目標にしてはどうだろうか。そしてボランティア、資金の協力など、市民の幅広い支えを主体とし、あたかも劇場の演目のように、毎年、体験型作品の内容を変えるような試みを期待したい。

 今回、初めて十和田市を訪れた。ここはアートにより成功した町として、よく紹介されていて、全国的にも有名である。確かに美術館周辺は観光客もいるが、実際、日曜日の町を歩いてみても、商店街はほとんど閉まっており、通行人もいない。隅研吾設計によるモダンな市民交流プラザも、数人の若者がいるだけで、ほとんど活用されていない。平成25年の統計によれば、十和田現代美術館の入場者数は約14万人、一日、500人くらいであろうか。青森県立美術館は45万人、一日1500人くらいか。ちなみに2006年の”A to Z”75日の会期期間で8万人、一日千人の入場者数で、そのうち県外客が70%を占めた。一方、私の好きな三沢航空博物館は20万人と現代美術館より多いし、同じ十和田市と言っても、奥入瀬、十和田湖は約百万人と観光の主役はこことなる。アートによる町づくりと言えば、何だかかっこよく聞こえるが、実際はそんなことは極めて難しく、むしろ漫画、アニメの方が集客率は高く、鳥取県境港市の水木しげる記念館の入場者数は200万人を越えている。アートと言えば、イコール文化と解釈し、高尚なものを考えがちだが、実際はアート、特に現代アートに興味を持つ人はかなり限られていて、それによる町おこしは期待すべきものではない。むしろ美術館のような媒体を通じて市民が色々と参画し、活動することが、町の活性化を呼ぶと思うし、子供達がアートを見る、触れる機会が増えることは教育上も望ましい。観光地、町おこし、集客を純粋にアートによってのみ得ようとするのは、幻想である。

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