2017年12月7日木曜日

六甲学院に通っていた頃

現在の六甲学院、第一グランド



 尼崎の難波小学校から六甲中学に入ったのはいいが、阪口塾から入った三名を除き、誰一人知らない面々で、最初は緊張した。それでもサッカー部に入るとすぐに友人もできて、慣れていった。ただ朝は早く、毎日六時に起床して、六時半には家を出る生活を六年間ずっと続けた。東難波のバス停留所から645分のバスに乗り、阪急塚口まで行き、7時10分ころの神戸三宮行きの普通に乗った。これをはずすと、始業ギリギリとなるため、阪急六甲駅から学校までの坂を走らなくてはいけない。結構きつい。

 電車の乗る場所は大体決まっていて、私の場合は後ろから3両目のところで、武庫之荘、西宮北口、夙川駅と電車が止まる度に仲間が増えていく。ほぼメンバーは固定される。一方、他の学校、甲南女子、芦屋女子の中学、高校の生徒もこうした傾向があったのか、これも同じメンバーが一緒の電車に乗ることになる。そうなると毎日、顔を合わせるため、気になる子がでるものだが、当時はお互いに話しかけることもなく、そのまま自然消滅した。ただ友人の一人は、大学卒業後に大手飲料メーカーに勤めたが、そこに一緒の電車に乗っていた女の子が2、3年後に入社し、“中学生のころから憧れ、同じ会社に入りました”と告白された。こういった例は少なく、私のようにもてない学生は、結局、中高六年間、女学生とデートどころか、全く話したことがないという異常な生活をしていた。弘前の友人や家内に聞くと、中高校時代、それなりのボーイフレンドやガールフレンドがいて楽しそうな生活をしていたようで、そうした楽しい青春の思い出がないのがくやしい。

 今でもそうだが、六甲学院は校則が厳しいところで、ダメと言われると破りたくなるのが若者の本能である。まず流行ったのは、平凡パンチやプレイボーイなどの雑誌を皆で回し読みするようになった。中学生のころは本屋で、こうした雑誌を買うのはなかなか勇気がいたので、学校に持ってくる生徒はその勇気を賞賛された。その後、次第にエスカレーしてアメリカ版プレイボーイも持ち込まれた。さらに中学三年生ころになると、当時、ロックの全盛期で、シカゴ、レッドゼッペリン、ディープパープルなどのバンドに人気があったが、レコードが高くて買えなかった。そこで、500円ずつくらい十名くらいで出し合い、梅田のLPコーナで買ってきてもらい、これも廻し聞きをした。この前の同窓会で、驚いたのはこの中の数人の同級生は、1972年の伝説のディープパープルの大阪公演を聞きにいったと言っていた。高校一年生でこうしたライブに行くのもいかにも六甲ぽい。お酒を飲んだのは、高校二年生ころで、当時の仲間十名くらいで、六甲山にある同級生の別荘に泊まりに行った。そこでウイスキーを買って、コーラで割って飲んだ。コンドームを持ってくるものもいたが、男同士で風船にして遊んでいた。次の日は、この別荘から学校に行くため、二日酔いの状態で朝早いケーブルカーに乗った記憶がある。

 サッカー部にいたので、土曜日は練習、日曜日は試合という日程だった。そのためあまり神戸や梅田に出て遊ぶことはなかったが、それでも暇な時は、こずかいをもらって神戸三宮のビック映劇という映画館に行った。ここは少し古い映画を二本立てで安く上映していたので、イージーライダーなどのニューシネマと呼ばれる映画を多く見た。といっても当時は携帯電話もなく、友人とわざわざ電話するのも面倒なので、ほとんど一人で遊びに行った。暗い空間に包まれ4、5時間いるのは気持ちが良かった。

 最近、六甲学院のサッカー部のHPができたのでよく眺めている。昔は近畿大会優勝など兵庫県の強豪校として知られていたが、よく週3日、1時間半の練習で勝ったなあと思う。さらに部員も皆、学業も優秀で、私の学年でも私以外はすべて現役で、神戸大学が2名、大阪大学が1名、京都大学が1名、東京大学が1名、早稲田大(政経)が1名と、名門大学に入っているし、一学年上のゴールキーパーは神戸大学医学部へ、一学年下のGKは京都大学建築と難関学部に入っている。練習と勉強の切り替えが上手だったのだろうが、一人私は、どちらも中途半端で、練習にも力が入らず、入試にも失敗し、さらには大道学園という予備校の試験にも失敗したときには、さすがにへこんだ。

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